「三橋旅館」について(2)

三橋旅館の繁栄

 明治時代に入ると新しい開化の波が鎌倉へも押し寄せて来ました。内外の行楽客も増加したと思え、明治十三年には「郷父老三橋小左衛門」らが中心となって大仏坂が広げられ(「重修大仏坂記」高徳院門前)、十八年(一八八五)には三月廿五日の『東京横浜毎日新聞』に、三橋旅館の「海水浴御馳走広告」が出されています。
 三橋家は江戸時代以来の有力者でした。前述の大仏坂開鑿工事のほか、「大仏殿再建日記」の十二年七月廿四日「鎌倉大仏殿堂再建ノ儀ニ付願」の末尾に「同寺世話人惣代」として三橋小左衛門の名があります。さらに明治十四年(一八八一)十二月の葛原岡神社の社殿創建に際しては、「社殿創建願」の「発願者総代」として坂ノ下村の地主村田久四郎と共に、三橋与八の署名があります。
 このほか、明治二十五年(一八九二)五月、西鎌倉・東鎌倉両村により組合村が結成され、この時開設された組合会の議員として三橋与八の名が見えています。次いで三十年十月十八日、大町大巧寺脇にあった鎌倉銀行の創業総会が行われ、この時発行された『株式会社鎌倉銀行定款』の巻末に発起人の一人としてその名があり、小左衛門、与八は共に鎌倉の名士として手広く活動していたことが伺えます。
 三橋旅館が文化年間から経営されていたことは前述の通りです。三橋与八は江戸時代以来の地所と旅館を小左衛門から継承し、さらに開化の波に乗って、自家の勢力と旅館の規模を拡大したのではないでしょうか。

三橋旅館の規模

 明治二十年(一八八七)七月十一日の東海道線藤沢停車場開業により、東京からの所要時間が短縮されました。これに伴って三橋旅館も規模を拡大したようで、当時の伯爵阿部家の家令山岡謙介が書いた「由比浜随遊私記」の同年八月二十八日の項には、「中ニ就キ三橋氏ノ客舎頗大ナリ。夏時浴海ノ客絶ヘズト云フ」とあります。さらにこの記録には、藤沢停車場から人力車で遊行寺裏門前を過ぎ大仏坂切通を経て、鎌倉に入ったことも書かれています(「明治前期の鎌倉遊覧−山岡謙介『由比浜随遊私記』より−」阿部正道)。また、二十一年八月九日に神奈川県知事に宛てた三橋与八の上申書も来遊者が増加したことを伝え、同年八月十六日の『毎日新聞』の記事には、三橋旅館の増築客房も満員状態であったことが記されています。

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推定明治20年代の長谷寺門前 八雲神社蔵


 ここにある写真は、推定明治二十年代の長谷寺門前です。左端の二階家に「同盟結社 一新講社 周旋方」「郵便局」と読める二つの看板のほか、「三ッ橋」と書かれたランプが下がっています。このうち、「一新講社」とは明治六年静岡に起こった宿屋の結社で、のち全国に普及しました。この写真は長谷の本館とは別の建物であることを伝え、さらに三橋旅館が二十年代に郵便局を営み、旅館の規模を拡大したことを裏付ける上で貴重な史料といえるでしょう。
 ところで、三橋旅館には明治時代を通じて専用の海水浴場がありました。小説家で歌人であった大塚楠緒子(一八七五〜一九一〇)が三十年一月『文芸倶楽部』の「臨時増刊第二閨秀小説集」に発表した「しのび音」に、「三橋海水浴場としるされたる旗はたはたとあほられて、葦簾(よしず)はりたる脱捨場さびしく」とあります。十八年の「海水浴御馳走広告」から推察しますと、独自の海水浴場があったことはほぼ間違いないでしょう。

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「御休泊所 三橋与八」(部分・年末詳) 神奈川県立図書館蔵


 さらに図は神奈川県立図書館所蔵の、三橋旅館の全景です。敷地は約三千坪といい、長谷寺門前通りに正門がありました。建物の下を稲瀬川が流れ、築山や池がある広い芝生の庭園が造られていたといいます。この図と、二十九年の「相摸国鎌倉名所及江之嶋全図」にある「旅館 三橋与八」の絵と比べると、門や建物の形状等所々に違いが見えます。二つの図はどちらが先に描かれたかは不明ですが、増加する宿泊客に対応して、部分的に増改築がなされたことを伝えているのではないでしょうか。とくに二十四年(一八九一)の前田家「日記 鎌倉別邸」(前田家蔵)の七月二十五日の項に、「三橋与八方座敷」が新築落成して前田利嗣が招待されたとあって、新たに座敷を建設したことが伺えます。さらに、三十二年(一八九九)二月には前田家から鎌倉別邸の建物の払下げを受けた記録があります。

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鶴岡八幡宮周辺 旗のある建物が三橋出張
「相摸国鎌倉名所及江之嶋全図」(部分)
明治29年 鎌倉市中央図書館蔵


 ところで、「相摸国鎌倉名所及江之嶋全図」には長谷の本館のほかに、若宮大路に「三橋出張」が描かれています。この旅館は明治三十八年横浜郵便局から発行された『横浜横須賀電話番号簿 附特設電話番号簿』によりますと、雪ノ下265(現雪ノ下1-8-35、36)に所在し、経営者は伊東右朔といいました。三十三年の同支店の広告には三階建てとあり、鶴岡八幡宮前角正旅館の並びの、薄水色に塗り上げた和洋折衷の豪壮な建物であったようです。

 さらに、三橋出張に宿泊した唯一の記録として、飯田助作という人がしたためた『富士羈旅記(きりょき)』があります。これは、明治二十五年七月十二日から二十一日まで、助作以下七名が富士山参拝の目的で旅行した時の紀行文です。七月十八日には江の島恵比寿屋旅館で昼食をとった後鎌倉に向かい、「鶴岡八満宮」を参拝して「三ッ橋与八支店」に宿泊しました。

 この記事の中で助作は、同所が二十五年頃には既に繁盛していたこと、鱸(すずき)が泳ぐ池がある派手な旅館であったことを伝えています。なお、筆者の飯田助作(一八四七〜一九二六)は下総国香取郡橘村(現千葉県香取郡東庄町)の助役や村長を歴任した人物です。
 これらのほか、鎌倉駅前にも「三橋出張」がありました。明治四十五年刊の『現在の鎌倉』に「待合所」として「鎌倉停車場前 三橋出張所」と見え、古老の話では、旧明治製菓(現第一勧業銀行)の所だったといいます。さらに海岸付近と思える所に「三橋第参別荘」の表札が掛かる建物があり、「会場より約一町を隔つた三橋旅館の別荘に『三越と鎌倉編輯局』の看板がかゝつて居る」とあって(『三越呉服店員鎌倉大慰労会記念』明治四十二年)、明治四十年代には本店と二つの出張所のほかに、「別荘」と呼ばれた離れが数軒あったようです。

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三橋旅館絵ハガキ


浪川幹夫

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