「三橋旅館」について(1)

はじめに……鎌倉の宿屋について

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「相模国鎌倉名所及江之嶋全図」(部分)
明治29年8月19日発行
東京浅草精行社印刷
鎌倉市中央図書館蔵
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「相模国鎌倉名所及江之嶋全図」(部分)


 ベルツや、長与専斎らによって、明治時代の初期から中期にかけて鎌倉が保養地として紹介され、二十年代から京浜方面の貴紳豪商が来遊しました。この頃には別荘も建ち始め、保養地、観光地としての鎌倉が形成されたことは既に知られています。当然、宿泊所なども整備され、明治二十九年発行の銅版絵図「相摸国鎌倉名所及江之嶋全図」(鎌倉市中央図書館蔵)に見える旅館として、由比ケ浜の「海浜院」、長谷の「旅館三橋与八」、「神明小路」付近に「旅舎稲瀬屋」、鶴岡八幡宮前に「対鶴館角正」、その隣に「三橋出張」、「旅館柳都亭」(「鎌倉停止車場」前)、「旅舎丸屋」(八幡宮裏)、「温泉」(扇ヶ谷「正宗稲荷」奥)、「温泉」(「亀ヶヤツ」香風園近くにあった米新亭という鉱泉旅館)がありました。
 ところで、鎌倉の宿場の記録としては、古くは貞応二年(一二二三)の『海道記』に、若宮大路の宿所のことが書かれており、作者は八幡宮の西側裏辺りに宿したことが伺えます。しかし、前述のこれらの旅館は、江戸時代の紀行文の記述からするとその頃からのものがほとんどで、明治時代に入ってそれぞれ規模を大きくしたと思われます。
 そこで今回は、明治から大正時代にかけて海浜院ホテル(後の海浜ホテル)とともに、鎌倉で最大規模を誇った三橋旅館について触れてみたいと思います。

江戸時代の長谷村と「三橋」

 江戸時代中期になると庶民の動きが活発化し、加えて全国の街道が整備され、大山参り、伊勢参り、四国巡礼等宗教行事を口実に人々が旅行をするようになりました。神社仏閣を多く有する鎌倉や、弁天信仰で有名な江の島も例外でなく、江戸から近いことなどの理由で多くの人々が訪れたといいます。いちはやく鎌倉の宿場として栄えたのは鶴岡八幡宮前で、古くは寛永十年(一六三三)の「鎌倉順礼記」(沢庵宗彭)に「雪の下のやどり」と記されています。
 ところで長谷村は、延宝八年(一六八〇)の「鎌倉紀」(自住軒一器子)の四月十五日の記事に見えています。この時作者は、長谷寺に参詣した後雪ノ下の某宿屋に泊まったので、長谷村が宿場として繁盛していたかは不明です。また、寛政九年(一七九七)の「相中紀行」(田良道子明甫)の、八月三日には、「爰をすぎて長谷村に至れバ、人家軒を並て頗る市中の趣あり」とあって町並も整備され、寛政十一年(一七九九)の刊記がある「鎌倉総図江之島金沢遠景」(鎌倉市中央図書館蔵)に描かれた長谷村の町並が形成されたと想像できます。さらに、文政四年(一八二一)雪ノ下の大火のことを書き記した「第四編巻之中(文政四年・一八二一)」に、「雪の下類焼して天行(はやり)賑ふは、此節長谷の観音前と鶴が岡西門通り坂路の旅籠(はたご)やなりけり」とあって、長谷寺や大仏へ参詣する人々が増え、宿場として栄えたことが伺えます。
 「三橋」は文化六年(一八〇九)扇雀亭陶枝の「鎌倉日記」に、「長谷なる三ッ橋といへるにて、ひるのしたゝめする。生々しき鰺を火とらす爰は泊宿有所なり」と見えており、文化年間には既に宿屋を営んでいたようです。前述の鶴岡八幡宮門前の大火もあってその後繁盛したと思えますが、「三橋」について記載がある紀行文では、このほか弘化二年(一八四五)森七三郎の「江ノ島参詣之記書写」(服部清道氏蔵)の四月九日に「明日光明寺参詣の順路の為、長谷村三ッ橋と言旅店に止宿」、安政二年(一八五五)李院某妻女の「江の島紀行」四月廿、廿一両日の記事に「長谷の三ッ橋屋へ、戌の刻近き頃やどる」「また三ッ橋屋へ立寄、昼の支度とゝのへて五(御)霊のみやしろに詣づ」とあるのみで、当時の建物の規模や姿などについては未詳です。
 ところで、幕末近くなると外国船が日本近海を脅かすようになり、海防の必要上三浦半島や鎌倉にも台場や見張番所が造られました。江戸幕府により助郷(すけごう)や伝馬(てんま)などの国役が免除されていた鎌倉も例外ではなくなり、嘉永四年(一八五一)頃には長谷村に人馬継立が置かれた記録があります。また、手広村和田家文書の嘉永三年「御年貢并諸夫□□」や、山内村の「甲嘉永七歳(一八五四)寅正月吉日御用留」、そして片瀬村の「嘉永七年『御用留帳』」などを見ますと、人馬継立等の課役に対処すべく、近在の名主連が三橋に寄合をもった姿が伺えます。
 幕末の宿屋としての記録はありませんが、これらの史料から推測すると、当所が鎌倉である程度重要な立場にあった事はほぼ間違いないでしょう。

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長谷 三橋旅館「相模国鎌倉名所及江之嶋全図」(部分)


明治時代初期の三橋旅館

 故木村彦三郎氏がまとめた『鎌倉の社寺門前町』(鎌倉市中央図書館)によれば、明治三年(一八七〇)十二月の「相摸国鎌倉郡長谷村戸籍」に「名主三橋小左衛門旅亭四貫七五二文」、また、明治五年(一八七二)「長谷村戸籍簿」に「三二三橋小左衛門農・役人四貫七八三、〇七文」とあります。
 長谷村は江戸時代天領及び長谷寺領であったようで、長谷寺門前に住んだ農民は、鶴岡八幡宮門前の同宮に奉仕する社人、八乙女らと同様、公然、非公然の副業として農間質屋、紺屋、畳屋、旅館、大工、左官などを営んでいたとのことです。前述の史料は地租改正以前のもので、旅館「三橋」の当主三橋小左衛門は、長谷村において最も有力な農民であったと思われます。
 明治九年(一八七六)の地租改正に際して、第十六大区六小区となったのは乱橋材木座・長谷・坂ノ下・極楽寺の四ヶ村で、戸長に三橋小左衛門が就任しました。そして明治十年「長谷村戸籍簿」によれば、三橋旅館の経営者として初めて三橋与八の名が見えます。彼は明治八年頃長谷村に鎌倉でいちはやく置かれた「横浜郵便局出張及ヒ取扱人」を引継ぎ、十二年三月自宅に「郵便取扱所」を開業しました。
 ところで、明治時代初期の三橋旅館利用の記録としては、「明治十二年二月ヨリ回達留大町邨役場」があります。その「番外香港鎮台并工部卿其他江ノ島鎌倉及箱根等別記旅行日割」によると、香港鎮台夫妻、工部卿夫妻ら旅行人員総勢三十四名が「三橋茶店」で昼食をとる予定であることが書かれています。
 宿泊こそしていませんが、恐らく明治十年代初頭には外交官や官吏らが三橋旅館を利用しはじめたようです。

浪川幹夫

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