加賀百万石の別荘(その4)

前田家鎌倉別邸略年表

〇明治4年 (1871) 岩倉遣外使節に前田利嗣(としつぐ)同行。
〇明治5年 (1872) 7月、岩倉遣外使節、英国の海浜保養地ブライトン訪問。
〇明治20年(1887) 7月、東海道線の保土ヶ谷・戸塚・藤沢の各駅が開業。
〇明治21年(1888) 8月、利嗣が初めて鎌倉に来遊、長谷の三橋旅館に逗留。
〇明治22年(1889) 6月、横須賀線が開通。
〇明治23年(1890) 利嗣、日光と鎌倉に別荘を持つ。10月31日鎌倉別邸が竣工、「聴濤(ちょうとう)山荘」と命名。

〇明治25年(1892)英照皇太后と皇太子(大正天皇)が、相次いで鎌倉別邸に行啓(5月31日、英照皇太后・8月1日〜23日、皇太子行啓)。とくに皇太子の行啓(ぎょうけい)は長期に及ぶため、その準備として7月頃に「手入れ」を行った。

〇明治27年(1894) 1月、葉山御用邸創建。
〇明治30年(1897) 9月11日、16日両日、皇太子行啓。
〇明治31年(1897) 2月24日〜4月25日、常宮(つねのみや・明治天皇第六皇女)・周宮(かねのみや・同第七皇女)両内親王が行啓。

〇明治32年(1899) 2月26日、常宮・周宮両内親王行啓。2月、鎌倉別邸大改築、12月に竣工。8月、皇太子が前田家日光別邸に行啓。9月、鎌倉御用邸竣工。

〇明治33年(1900) 1月18日〜31日、鎌倉別邸に皇太子が行啓。3月3日、有栖川宮威仁(たけひと)親王・同妃(前田慶寧・よしやす・四女)行啓。3月8日〜14日、葉山御用邸より皇太子行啓。4月17日、改築披露。6月14日、利嗣死去。

〇明治41年(1908) 2月、翌年の皇后行啓準備のため別邸の屋根等を修理。
〇明治42年(1909) 6月3日、皇后、鎌倉別邸に行啓。
〇明治43年(1910) 3月19日、鎌倉別邸焼失。11月、再建工事本格化。
運気好き鎌倉 就中(なかんづく)昨年焼失せし前田侯爵家にては再び別荘建築を為すに決し昨今着手中にて…」『横浜貿易新報』同年12月23日記事

〇大正12年(1923) 9月1日、関東大震災、鎌倉別邸倒壊。同14年頃、洋風建築となる。

〇昭和2年 (1927) 庭園整備が完了。前田利為(としなり)、「長楽山荘」と命名。
〇昭和11年(1936) 11月、全面改築竣工。現在の建物となる。
〇昭和17年(1942) 4月25日、利為、ボルネオ守備軍司令官として出征。9月5日、同地で戦死。
〇昭和20年(1945) 戦後、鎌倉別邸、GHQの接収を受ける。
〇昭和40年(1965) 佐藤栄作が鎌倉別邸の建物のほぼ半分を別荘として借用(50年まで)。
〇昭和58年(1983) 鎌倉市に寄贈。
〇昭和60年(1985) 鎌倉文学館開館。

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招鶴洞『聴濤山荘十勝』より
別邸の表玄関
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占春丘(せんしゅんきゅう)
『聴濤山荘十勝』より
庭園西側斜面の風景

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含翠亭(がんすいてい)『聴濤山荘十勝』より
庭園北東側奥、一段高い平場の風景


※『聴濤山荘十勝』は、前田家が明治42年6月3日に発行した鎌倉別邸の写真集。明治30年代の別邸の様子をつぶさに知ることのできる貴重な史料です。なお、この発行年月日は皇后の行啓のまさにその日であり、この催しの引出物のひとつとして編集されたことが伺えます。

追 記
 明治27年に葉山御用邸が建てられ、32年に鎌倉御用邸が竣工。前田家鎌倉別邸は鎌倉御用邸が建ったその年に大規模な改築が行われ、さらに33年、41年と部分改築や修繕がなされ、たびたび皇室の人々を迎えています。殊に明治42年には皇后行啓の宴が大々的に催されており、明治30年から43年に全焼するまで当別邸はあたかも鎌倉御用邸の別館的な様相を程していたとしても過言ではありません。
 前田家は、首都に最も近い保養地・別荘地鎌倉の発展に寄与したのみならず、湘南・三浦方面に御用邸が建設されるにあたり、その頃には皇室の行事や運営について一翼を担う立場にあったのかも知れません。

 ※「加賀百万石の別荘」の詳細については、拙稿「前田家鎌倉別邸の変遷」(雑誌『鎌倉』第76号)をご参照下さい。

浪川幹夫

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