加賀百万石の別荘(その3)

大町八雲神社蔵
長谷・坂ノ下の被害状況(大町八雲神社蔵)

関東大震災と鎌倉別邸

 大正十二年九月一日関東地方を襲った大震災は、鎌倉方面にも大きな被害をもたらしました。鎌倉町の四千余戸の家屋は大部分が倒壊し、いたるところで火災が発生、多くの人命が奪われました。
 そして前田別邸もかなりの被害を蒙りました。しかし、再建は早く、十四年頃にはほぼ完成していたことが同家の史料からうかがえます。
 この時の建物はレンガ造りの二階建で、はじめて洋風建築となりました。昭和二年(1927)には庭園の整備も完了したようで、利為は記念して「長楽山荘」と命名しました。当地が長楽寺谷と呼ばれ、鎌倉時代に僧源空の弟子隆観(隆寛)が開いた寺があったという故事に由来します。

長楽山荘
長楽山荘内部 昭和11年(曄道永一氏蔵)
 
長楽山荘
長楽山荘 昭和11年(曄道永一氏蔵)

鎌倉別邸「長楽山荘」の本邸化

 震災後の別邸も昭和八年頃になると、水道、電気、ガスの普及などに伴い全面的な改築の必要が生じたといいます。
 さらに当時は、昭和六年の満州事変にはじまる日中間抗争の長期化、八年の国際連盟脱退等我が国の孤立化が進み、米英仏等連合国との対立の気運が高まっていました。このような情勢の中で鎌倉別邸を本邸とするべく、前田家の鎌倉定住化が促進されたようです。
 竣工したのは十一年十一月のことです。改築工事の主なものとしては、本館のほか茶室(江戸時代以来の建物で、明治四十四年頃には鎌倉に移築されていた)や、家職員住宅二棟、倉庫、庭園の整備などです。設計者は渡辺栄治。竹中工務店によって建てられました。そして、利為は自らの思いを込めて造らせました。改築指導のため頻繁に来鎌したようで、その様子については三島由紀夫の小説「春の雪」に描写されています。
 この大工事によって別邸の様相は一変しました。まず、洞門から建物へ続く道筋を深くしました。さらに、谷の奥まった所を掘り下げて、南側に土手を残した一段低い平地をつくり、そこへ三階建の本館を構築しています。
 なお、本館の地階部分には事務室、宿直室、女中室等がありました。ここは現在、鎌倉文学館の事務室及び講座室にあたる部分で、前面の土手に阻まれて外の様子は見ることが出来ず、庭園からも見えないという構造になっています。しかし、冬期の日当たり、夏期の遮光はことのほか良好で、快適な空間を構成しています。この点から、まず、使用人に対する配慮がなされ、そのうえで当主及び家族の生活と、使用人の生活空間とを隔てる工夫がなされたと思われます。
 昭和十七年(1942)戦争が始まると利為は、四月六日ボルネオ守備軍司令官に親補され、四月二十五日に出征。しかし、九月五日戦場視察の途上、ボルネオ・パトウ岬沖合上空で非業の死を遂げました。

大正14年頃の鎌倉別邸
大正14年頃の鎌倉別邸 (前田家蔵)

  

おわりに

 明治初期に欧米の保養の概念をいちはやく知った前田利嗣は、明治二十一年井上馨ら政界の要人、財界人、官吏等の別荘が建ちはじめた当時の鎌倉を見、当地が夏冬の保養に適していることに注目しました。また、別邸建設の目的が前田家の保養のほか、仮の御用邸としての機能を持たせたことは前述したとおりです。その後二度の大きな災害を経験し、四回の改築を重ねて和風建造物から洋風建築へと変貌を遂げました。そして昭和初期の、日中抗争の激化による我が国の暗黒時代の到来とともに、別邸としての本来の姿から変化して、本邸化への道をたどりました。
 敗戦後はGHQの接収を受けるなど、苦難の道を歩んだようです。が、昭和四十年から五十年まで佐藤栄作が首相当時、建物のほぼ半分を借用し週末の別荘として利用したといいます。その後は五十八年鎌倉市に寄贈され、六十年鎌倉文学館として開館。年間約十万人を越える観覧者を迎え、今日に至っています。



浪川幹夫

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