古き鎌倉再見 その5

神仏分離直後の鶴岡八幡宮と鎌倉宮の創建

 今回は神仏分離によって変貌した鶴岡八幡宮と、新政府によって創建された鎌倉宮の姿を紹介します。
 次の写真は神仏分離直後の八幡宮の姿を伝えています。

写真:鎌倉八幡宮からの眺望
写真1 “VIEW FROM THE TEMPLE OF HATCHIMAN, AT KAMAKURA.(鎌倉八幡宮からの眺望)”
『ザ・ファー・イースト』1871年9月1日号(旧暦明治4年7月17日)
(横浜開港資料館蔵)


 前年の諸堂宇の取壊しが終った、その後の状況です。写真は石段の上から撮ったものですが、残っているのは下拝殿(神楽殿)と左端に屋根がわずかに見える若宮と、石階下にあった御手洗(みたらし)だけです。
 左の木立の前には大塔がありましたが、写真左奥に集められている石は、大塔や諸堂宇の土台石だったのでしょうか。仁王門があった所には、真新しい鳥居が見えます。また、先に紹介したベアトの写真などと比べると下拝殿の屋根が荒らされているようであり、やはりこれも壊されかけたと考えられます。
写真:鎌倉の大塔宮
写真2 “THE SHRINE OF OTO NO MIA, KAMAKURA.(鎌倉の大塔宮)”
『ザ・ファー・イースト』1871年9月1日号(旧暦7月17日)
(横浜開港資料館蔵)


 創建当初の鎌倉宮。手前の橋は柵で閉められているので、一般庶民の立入りが禁じられていたのではないかと想像されます。古老の話によれば、この橋は現在の鳥居より東側にあったといい、参道も現在とは異なって東側の細い道だったということです。同宮は旧暦の明治2年(1869)2月に起工、6月20日には神体が決定され、7月21日社殿落成をもって鎌倉宮と命名、創建されました(『明治天皇紀 第二』宮内庁 昭和44年 吉川弘文館)。この創建は前段の神仏分離と共に、新政府の王政復古・祭政一致政策による天皇を柱とした中央集権化のもとに行われました。精神的には平田派国学が基調となり、さらに楠木正成(くすのきまさしげ)や後醍醐天皇の皇子護良(もりよし・もりなが)親王等を再評価した、いわゆる南朝顕彰運動が合わさってこの政策は強力に押し進められたといいます(『鎌倉市史近代通史編』)。
 なお、ブラックは写真の説明として、「その墓(護良親王墓)が神仏分離政策の波に乗って顕彰され、そこにこの神社が建てられたが、頼朝の墓と比べると興味は少ない」と書いています(『神奈川の写真誌 明治前期』昭和45年 金井圓、石井光太郎編 有隣堂)。
 ところで、『ザ・ファー・イースト』の発行者兼執筆者ジョン・レディー・ブラック(1827〜1880)は、幕末に来日して横浜の『ジャパン・ヘラルド』の記者となり、1870年この『ザ・ファー・イースト』を独立創刊した人物です。この雑誌の写真については、最初のころはオーストリア生まれの専属カメラマン、マイケル・モーゼルが撮影したといい、モーゼルが離日したあとは他の外国人や日本人カメラマンが撮影したようです。


浪川幹夫

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