古き鎌倉再見 その27

―大倉耕地(大倉幕府跡)の周辺2〔明治時代の荏柄天神社〕―

   二階堂の荏柄天神社は長治元年(1104)の勧請(かんじょう)と伝え、祭神は菅原道真。 本年は同社御鎮座(ちんざ)900年にあたります。また、治承4年(1180)12月には源頼朝が初めて大蔵(おおくら)の地に御所を造営した時、同社がその艮(うしとら・東北)の方向にあたるため鎌倉幕府の鬼門(きもん)の守り神としたといわれます。
 写真は荏柄天神社の明治時代の境内で、社殿は本殿のみが写されています。江戸時代の絵図を見ると本殿の前面には幣殿(へいでん)・拝殿(はいでん)が接続していますが、この写真には見られません。 いずれ紹介しますが、関東大震災直後の写真にも幣殿・拝殿はなく、明治時代の中心社殿は本殿のみであったと想像されます。なお、本殿は鎌倉市指定文化財(平成13年12月25日指定)で、 造営時期が室町時代初期を下らないとされる鶴岡八幡宮の旧若宮社殿を、江戸時代の元和8年(1622)頃に移築したものと推定されています。享保19年(1734)9月に書かれた同社の由緒書(ゆいしょがき)には、 元和7、8年頃の鶴岡造営の時、鶴岡八幡宮若宮の古宮を荏柄山に移したとあります。 そして、現在の本殿は、平面の形式が天正19年(1591)の「鶴岡八幡宮修営目論見絵図(しゅうえいもくろみえず)」(鶴岡八幡宮蔵・重要文化財)に描かれた若宮の「御しんでん(神殿)」平面図に類似することが注目されています。
 荏柄天神社本殿の建物は、規模が桁行(けたゆき)3間(6.25尺・6.5尺・6.25尺で約5.76m)、梁間(はりま)2間(5.36尺等間で約3.25m)で、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)と呼ばれる形式です。 屋根を構成する地垂木(じだるき)は反りが大きく、内部を小組格(こぐみごう)天井にするなど格調の高い優美な構造で、中世若宮の古宮を移築したという伝承を裏付けています。
 ところで、中世の鶴岡八幡宮若宮は『鶴岡社務記録』や『鶴岡八幡遷宮記(せんぐうき)』などによれば、鎌倉時代の正和5年(1316)に再建されたことが知れますが、 その後は『鶴岡八幡宮寺社務職次第(しゃむしきしだい)』の記事に、明徳3年(1392)12月から始まった室町時代の鶴岡八幡宮社殿の修理に際して応永元年(1394)12月14日に上下両宮の金物や装束までも新調したという記事があるのみで、 江戸時代に至るまで建替えられたことを示す史料は今のところ見あたりません。
 写真は明治時代の境内の様子を伝えるものとして、また、そこに写された本殿は、円覚寺舎利殿(室町時代初期・国宝)や鶴岡八幡宮丸山稲荷社本殿(応永5年・重要文化財)等とともに、鎌倉にわずかにのこる数少ない中世建造物として貴重です。
写真:明治時代の荏柄天神社境内
写真 明治時代の荏柄天神社境内
Shrine of Egara Tenjin, dedicated to Michizane, patron of learning and scholarship.
“KAMAKURA FACT AND LEGEND” 陸奥イソ 大正7年 タイムス出版社


※「古き鎌倉再見」のシリーズは今回で終了します。次回からは「関東大震災の鎌倉」と題して、震災直後の鎌倉の被害状況を、写真と文で綴って行きたいと思います。


浪川幹夫

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