古き鎌倉再見 その24

―大倉耕地(大倉幕府跡)1―

  写真1は明治時代初・中期頃の大倉耕地(おおくらこうち)。 ここは、鶴岡八幡宮と荏柄天神社にはさまれた現在の清泉小学校を中心とした地域で、 最初の鎌倉幕府(大倉幕府)があった所といわれています。 画面左下に安永8年(1779)建立の「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道/承  薩州侯之命東都龍湖親和八十歳謹書/安永八年己亥二月 薩摩中将源重豪建之」と記された石碑 (現在は頼朝墓下に移設)が建つので、右下の道は鎌倉宮の参道でしょうか。 この道は明治時代になってつくられました。また、正面の小高い丘の中腹には、 石碑からまっすぐ伸びる道の一番奥に源頼朝墓が、その右には島津忠久(ただひさ・1179〜1127) と大江広元(1148〜1225)らの墓所が見えます。丘の前面には大倉耕地の名のとおり田畑が広がり、 建物は頼朝墓下の白旗神社(明治5年の建立とされる)と、左右にかやぶきの家が数棟あるのみです。
 なお、碑文に「薩摩中将源重豪」とあるのは、薩摩藩第24代藩主島津重豪(しげひで・1745〜1833)のことです。重豪は安永8年に先祖忠久(頼朝のご落胤という伝えもある)と島津家を権威づけるために頼朝墓近くに忠久墓を建立し、あわせて頼朝墓も整備しました。

 ちなみに大倉幕府は、源頼朝(1147〜1199)が治承4年(1180)12月に大倉に館(やかた)を新築したことに始まり、嘉禄元年(1225)若宮大路の東側に移転するまで存続したと伝えます。現横浜国立大学附属小学校と清泉小学校の間で行われた発掘調査では、地下3mほど下がったところに鎌倉時代初期の建物跡数棟のほか、瓦を大量に捨てたとみられる瓦溜(だま)りなどが発見されましたが、幕府の規模や構造などを物語るものはまだみつかっておりません。
 頼朝は正治元年(1199)1月に死去し、現清泉小学校裏手の山上に葬られました。ここは現在、国指定史跡「法華堂跡(源頼朝墓)」になっている所です。頼朝は生前、館の後山に持仏堂(じぶつどう)を営ませたことが『吾妻鏡』に書かれています。館とは大倉幕府にあたります。正治元年(1199)4月23日、百日忌仏事が「持仏堂」で行われたことが同書に見えますが、「持仏堂」の名はこれが最後で、翌2年正月13日には「法華堂(ほけどう)」で一周忌供養がありました。これ以後、「法華堂」で頼朝追悼の諸仏事が行われています。このことから、頼朝の没後「持仏堂」が「法華堂」として彼の墳墓堂となったことは明らかで、現在の頼朝墓が建つあたりにあったことが推定できます。  また、現在白旗神社が建つ場所は江戸時代には法華堂の名のお堂が建っていたといいますが、明治維新後の廃仏毀釈の嵐の中で取払われました。

 ところで、この写真の前面に広がる田畑の内、石碑から頼朝墓まで伸びる道をはさんで長方形に囲まれた区画があります。この範囲が頼朝の屋敷の跡であったと想像したいものですが、前述したとおり鎌倉時代の跡は地下3mほどの所にあるので、確たる証拠は何ひとつありません。

写真:明治時代初・中期頃の大倉耕地「頼朝墓前」
写真1 明治時代初・中期頃の大倉耕地「頼朝墓前」(稲葉一彦氏蔵)

写真:石碑(安永8年銘)
写真2 石碑(安永8年銘)


浪川幹夫

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