古き鎌倉再見 その2

ベアトと鎌倉

 幕末、開港とともに横浜の居留地を中心に多くの外国人が滞在しました。鎌倉についてはそれ以前から諸外国に知られていたようで、開港した直後から外国人が来遊しています。たとえば、慶長12年(1607)には、切支丹の管区長フランシスコ・パエズがロドリゲス神父と鎌倉に滞在した記事や、英国人ジョン・セーリスが慶長18年(1613)に来日し、鎌倉に立ち寄って大仏を見たことを『ジョン・セーリス日本渡航記』に紹介したものなど、当時、これらの記録を見た欧米人も多かったと思われます。
 ところで幕末に来航した外国人のうち、写真家ではフェリーチェ・ベアトがもっとも著名です。1825年ヴェネチア生まれ。イギリス国籍を有したといい、中国で英仏軍の従軍カメラマンとして活躍したのち、文久元年(1861)ごろ横浜に来航しました。『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』誌に掲載された下関戦争、鎌倉英人殺害事件、将軍慶喜とパークスとの謁見、鉄道開通式などの挿絵は彼の写真をワーグマンが線画に画いてロンドンに送ったといいます。彼は激動期の我が国の姿を後世に伝えてくれました。
 このシリーズでは、まず当時の日本の景勝地を収録した彼の作品アルバム《Views of Japan》の中から、鎌倉を写したものを紹介します。
 ベアトは元治元年(1864)11月、ワーグマンらとともに鎌倉を訪れました。十九日に横浜を出発、金沢で一泊したのち20・21日を鎌倉で過ごしました。ところで、21日には江の島で、遠乗りで来ていた英国第20連隊のボールドウィン少佐とバード中尉に会っています。その晩、ベアトらは藤沢の宿にいたといい、両士官の悲報を受けています。この事件は、両士官が鎌倉の若宮大路で二人組の浪人に襲撃され殺害された、いわゆる「鎌倉事件」で、「生麦事件」とともに幕末の外国人襲撃事件の一つとして有名です。
 江の島を出発した二将校は長谷を見物したのち、三浦に抜ける道と若宮大路が交叉する地点、現在の下馬四つ角あたりにさしかかった時、二人の浪人に襲われ絶命しました。これらの写真はその現場を撮影したものと思われます。

写真:鎌倉事件の現場
鎌倉事件の現場。ベアト撮影。
“Sight of the Murder of 2 Officers of the 2nd 20 Regt.”(横浜開港資料館蔵)


 このほかの、ベアトが八幡宮赤橋(太鼓橋)前から海岸方向に向けて撮った写真からすると、写真1の画面手前が段葛、遠方の松並木は海岸方向で、茅葺きの二棟の間を左へ向かうと長谷方面となります。数名の外国人のほかに役人と思える侍の姿もあり、おそらくここが殺人現場であったことは間違い無いでしょう。
写真:鎌倉事件の現場2
鎌倉事件の現場。画面の正面方向が長谷方面。ベアト撮影。
“VIEW NEAR KAMAKURA WHERE MAJOR BALDWIN AND LIEUT.BIRD WERE MURDERED”
(横浜開港資料館蔵)

写真:3
 「日本における英国士官2人の殺害現場に近い鎌倉の宮〔八幡宮〕に通ずる並木道(翻訳説明のまま)」
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1865年2月11号掲載。同誌特派画家のスケッチ。
(『描かれた幕末明治』金井圓編訳 雄松堂出版 昭61年 より)

浪川幹夫

▲TOP

Copyright (C) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2001 All rights reserved.