古き鎌倉再見 その14

―長谷・坂ノ下の辺り4―

江戸時代の鎌倉大仏
 鎌倉大仏は大異山高徳院清浄泉寺(だいいざんこうとくいんしようじようせんじ)の本尊です。 正式には国宝銅造阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像といい、像高約11.39m、重量約 122トンに及ぶ巨像です。 像が鋳られたのは鎌倉時代の 建長4年(1252)といいますが、製作者や完成年などについ ては不明です。そして、南北朝時代あるいは室町時代には 大仏殿も失われ、それ以来露坐になったといわれます。 こ の像は、いったいだれがどんな目的で造ったのか判らない、 鎌倉最大のミステリーと言えるかも知れません。
 また高徳院は江戸時代に、のちに増上寺第36世となった祐天上人(ゆうてんしょうにん・1637〜1718)が 小石川伝通院(でんづういん)住職の時に興した寺といい、この頃に光明寺の末寺になりました(『鎌倉市文化財総合調査目録』ほか)。
 祐天は、元禄16年(1703)に起きた地震の後、正徳2年(1712)江戸浅草の野島新左衛門(のじましんざえもん)の 寄進を受けて境内整備を行いました。その年には高徳院の堂舎も落成し、入仏供養が行われました。
 次に、享保18年(1733)には養国(ようこく)が住職となり、同年4月に大仏胎内を清掃しました。 この時には鳥類の出入は防いだようですが、像身にあった穴と頭部の螺髪(らほつ)が抜け落ちた所からは 雨水が胎内に流れ込み、顎の窪みには常に水が溜まっていたそうです。
 そして、大仏は元文2年(1737)4月8日から職人・人足・鳶職ら160人で修復され、 7月18日に大仏開眼供養式が執行されました(『鎌倉市史 近世通史編』)。 このあと台座の再興にかかりましたが、蓮弁の鋳造などが出来ず未完に終わっています。 写真の台座はこの時整備されたものと推測されます。
 なお、台座は大正12年(1923)の関東大震災で大破したのち、同13年の国庫補助修理によって積み直されており、 現在のものは旧状より1段高くなっています。
写真:明治時代初期の鎌倉大仏(鎌倉市中央図書館蔵)
写真 明治時代初期の鎌倉大仏(鎌倉市中央図書館蔵)

 像を横から写したもの。礎石のような平らな大きい石が3点写されていますが、現在は見られません。


浪川幹夫

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