第39回 My 鎌倉  
今月のゲスト
尾崎左永子さん

尾崎 左永子さん



日本語の美しさに感動
鎌倉で生み出す言の葉・・・

歌人・作家  尾崎左永子さん


[03.11.07 小町通り「門」にて]

おざき・さえこさんのプロフィール
1927年東京生まれ。東京女子大学国語科卒。歌集「さるびあ街」第4回日本歌人クラブ賞受賞、「源氏の恋文」(求龍堂)第32回日本エッセイストクラブ賞受賞、第六歌集「夕霧峠」(砂子屋書房)迢空賞、「新訳:源氏物語1〜4」(小学館)等の活動により神奈川県文化賞、著書多数(別掲著書目録参照)、「星座」(かまくら春秋社)主筆。



■肩書


わたしの肩書を何と紹介して頂きましょうか?(笑い)
「歌人・作家」とか「文筆業」が多いのですが、「作詞家」、「香道研究家」というのもあります。
実は、この(2003年)12月3日に文化庁長官表彰を受けることになったのですが、表彰理由は「歌人・作家」などの多面的活動を認めてくださったのだと思います。

■多彩な活動分野


テレビには年に何回か出させて頂いています。
定期的な番組では、NHK歌壇の「日本縦断短歌スペシャル」というBS2の番組があります。
春秋2回の特集番組ですが、スタジオと各地の歌会を結んで5時間ほど放送が続きます。この秋の分は今月末の(11月)29日に予定されています。

スタジオ側では全国からの投稿をファックスで受け付け、優秀作を5人の選者が選ぶのですが、投稿が4,900通などと信じられない数にのぼり、てんやわんやの状態になります。(笑い)

この番組のために、前夜から集まり、9時に入局し、支度を終えて10時から打ち合わせ、番組は11時から始まります。
選者は流派がそれぞれ違うのですが、選ぶ歌はだいたい同じになります。特選の5作は、重ならないように、カメラが各地の歌会模様を写している間に調整します。(笑い)

「星座―歌とことば」創刊号 もう一つ、定期的な番組に、NHK学園の短歌友の会の全国大会というのが年1回あります。NHK学園の短歌友の会は、短歌の入門をした初心者の方にいろいろ教えたり、添削をする会ですが、来年(2004年)1月13日に全国大会があり、これの選者として番組出演します。

「星座−歌とことば」創刊号の表紙 ⇒ 

: 「星座−歌とことば」 2001年1月1日創刊
発行:かまくら春秋社 主筆:尾崎左永子(歌人・作家)
日本語の美しさを再認識し、日本語の確かなかたちを
未来へ伝える、短歌を中心とした総合文芸誌
関連HP: 
http://www.oalab.co.jp/kamashun/seiza.html


■東奔西走の日々


このように、テレビに出ますと、いろいろの場所で、知らない方々から声をかけられることがあります。
先日も山形県の酒田で講演をしましたが、全く知らない方々から声をかけられて、テレビの影響の大きさに驚かされました。
山形県といえば、斎藤茂吉記念館があり、たまたま斎藤茂吉短歌文学賞の選考委員をしていますので、折々は近くの上山温泉に泊まったりします。

年に20回近く、地方で講演会があり、講演のあと、地元の人と酒を酌み交わしたりします。酒を酌み交わすだけなら楽しいのですが・・・(笑い)

尾崎さん 肩書に話を戻すと、「源氏物語研究家」とか「作詞家」とかいうのもあります。作詞家というのは、わたしは合唱組曲の歌詞を10冊ほど出版しており、中でも、合唱組曲「蔵王」(9曲)はつい最近78刷が出ました。作曲家の方たちはわたしの作詞には曲をつけやすいと言ってくださいます。

11月15日に名古屋市民会館中ホールで、新曲の「折紙」(4曲構成)の初演がありました。1000人もの方々が会場に来てくださり、びっくりいたしました。


■日本語再発見


わたしは17〜18歳のころ、佐藤佐太郎先生に師事して、「歩道」(短歌同人誌)に所属し、短歌の道を歩み始めました。
その後、東京芸大を出たての何人かの作曲家とおつきあいが始まり、20代の半ば過ぎには放送作家として、NHKやニッポン放送の台本を書いていました。作詞の世界に入ったのはこの頃です。

昭和40年に主人がアメリカとの交換教授でハーバード大学に行くことになり、幼児を抱えてボストンに住みました。
当時のボストンでは、響きの美しいフランス語が尊重されていましたが、たまたま源氏物語の抄訳が英訳され、評判になっておりました。
ハーバードの先生方との交流の場では、主人の友人も経済学か法学畑の人ばかりで、国文を学んだわたし一人ににおはちが廻ってくるので、止むを得ず受け答えを引き受けておりました。(笑い)

「星座―歌とことば」冬禽号 No.18 源氏物語が千年も前に作られたということだけでも、彼らには驚きだったのでしょう。(笑い)

このとき、聴覚から入ってくる日本語の美しさに気づきました。
1年ほどで帰国した後、NHKの放送作家を続けながら日本語の分析や研究をしました。

いろいろの音(母音)のもつやわらかさや鋭さなどを研究したのです。
わたしの作詞で曲がつけやすいといわれるのはこのお陰ですし、源氏物語の研究も今から考えるとこのときの経験がきっかけになったのだと思います。
↑ 「星座−歌とことば」冬禽号 No.18表紙

■生い立ち


わたしは東京の豊島区で生まれ、麹町で育ちました。
10才の頃、父が病気になり、千葉県の姉ヶ崎に移りました。当時の姉ヶ崎は山と海が近く、山にはヘビが沢山いましたし、また海は遠浅で、何キロも干潟があったのですが、汐が満ちてくるのも急で、浜にたどり着くのに命からがらという経験もしました。
姉ヶ崎から千葉市内の小学校に汽車で通っていました。ほぼ1年ほどでしたが、列車通学の子が少なかったので車内ではみなさんに可愛がられました。(笑い)

■鎌倉に移る


その後、世田谷区の瀬田に移り住みました。
藤沢の片瀬に昔、祖父の別荘があり、近所に親類も居ましたし、鎌倉には多くの友達がいました。

尾崎さん 多摩プラザにちょっと住んだ後、昭和52年に鎌倉にきました。
鎌倉への引っ越しには、ちょっとした因縁があります。以前、父が病気したとき、鎌倉に移ることになっていたのですが、大へん近代的な母でしたが、どうしてか、引っ越しを占ってもらったら、方角が悪いということで、急遽千葉になったのです。


昭和48年か49年頃、鎌倉に移ることを占ってもらったら、一人の占い師は「他の家族のために大変よろしい」という卦が出たといい、またもう一人の占い師は、「鎌倉へ行くとモノが沢山書ける」と占ってくれました。

実際、鎌倉に移り住むことを母は喜びました。鎌倉に移った母は「鎌倉海老」が食べたいといい、大海老につれてゆくと「海老が小さい」と文句を言ったりしましたが、実際にはたいそう喜んでくれました。

わたしが初めて認められたのも、鎌倉に移り住んだ後の評論「女人歌抄」(中公新書)でした。鎌倉に文士が集まるのはモノが書けるという風土だからでしょうか?

「星座−歌とことば」の表紙:対談の見出し
「星座―歌とことば」冬禽号 No.18 の表紙:対談の見出し

■霊感


わたしは、ある時期霊感が強かったことがあり、鎌倉の新しい家で、六部が目の前を横切ったり、お坊さんが見えたりしました。
錯覚かも知れないと黙っていたのですが、ある時、娘も見たというので、いろいろ話し合ってみると、ディテールまで見えるモノが一致するのです。

後で調べてみると、敷地が三筆に分かれており、その真ん中の一筆は昔の道だったのだそうです。そこを通る人が、時空を越えて見えたのでしょうか?(笑い)

主人は学者ですから、そんな筈はないと言っていましたが、最近は、「確かに人が通った!」などと言うことがあります。
例の占い師にこの話をすると、「ああ、それはユーチャン(ゆうれい)だ」といいます。

こんな話をあなたは信じますか?


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