鎌倉にゆかりのある方にお話を聞く…第31回 My 鎌倉
今月のゲスト
片岡洋之さん(KCN理事長)

市民の手で、
市民のためのネットを構築し、
市民が生活しやすい街づくりを

今年1月、鎌倉市民によるIT促進のためのNPO団体として設立されたKCN(鎌倉シチズンネット)。その代表である片岡さんに、KCNの現状と今後、そしてご自身の好きな鎌倉について語っていただきました。
[01.4.21 中央公民館内KCN事務局にて]

かたおか・ひろゆきさんのプロフィール

出身地は兵庫県西宮市。大学入学と同時に東京へ。現在は通信技術の研究所に勤務。 96年春に「風景と歴史が好き」だった鎌倉へ居を移す。01年1月よりKCNの理事長として活躍中。 二階堂在住


鎌倉市役所には、仕事の営業に行ったのですが、 ミイラとりがミイラに…。
鎌倉市の仕事をすることになってしまいました(笑)。

 昨年の夏、PDA(携帯情報端末)などのモバイルPCの有効利用について考えていまして、そのコンテンツの情報源として鎌倉に目をつけたんですよ。鎌倉というのは、観光情報や遺跡が多くて、発信するコンテンツがたくさんありますから。ちょうどその時、鎌倉市の地域情報推進課では、鎌倉市のホームページ「グリーンネット」の市民情報を、市民の手で充実させていこうという計画がありました。話を進めていくうちに、同じような目的のネットであるKCN(鎌倉シチズンネット=市民によるIT促進のためのNPO団体)を、市と協働して立ち上げようと言うことになりまして、ミイラとりがミイラになってしまいました(笑)。

 私も鎌倉に住み始めていましたし、希望がかなうならと引き受けたわけです。が、いざKCNを立ち上げるとなると、やることが山積み。土曜日の夜の会合、会員の確保や運営についての討議…。それでもなんとか今年の1月には設立総会を開き、2月には神奈川県にNPO法人の申請を終えることができました。

 KCNは、鎌倉市のIT化を進めることが目的ですが、その前に情報のやりとりを行う手段であるパソコンの操作を市民の皆さんに覚えていただかなくてはなりません。若い方は学校や会社で習うと思いますが、高齢者の方でパソコン操作が分かる方は多くないと思います。そこで、まずパソコンビギナーのための講習会を開くことにしました。ちょうど今年は行政主導の「IT講習会」が行われますので、その講師およびアシスタントを募集したんです。そうしたら嬉しいことに、100名近くの方がボランティアとして応募してくれました。そのうち、3分の2ぐらいの方がそのままKCNの会員になってくれました。

 当初、KCNの発起人は10名ほどでしたが、現在は賛助会員を含めると120名強となり、コンテンツ部、シニアネット部、IT教育部などいくつかの部に分かれて活動を行っています。賛助会員というのは、会の運営に直接参加せず、お金の支援、物の支援、技術の支援、場所の援助など、自分のできる範囲で支援をする会員です。KCNに協力してくださる方は、ぜひホームページにアクセスしてください。
http://www.kcn-net.org/org/index.htm

 NPO活動は、欧米では40年ほど前から活動していると聞きますから、日本はちょっと遅れていますね。 でも、「システムの構築」というハードの部分を含めてのIT化を行って行こうというのは、 私が知る限り日本では鎌倉市が初めてではないでしょうか? 従来のNPO団体は、「人と人をつなぐ」などソフト部分の役割が大きかったのですから。 さらに言えば、今回の鎌倉市のケースが成功すると、ほかの自治体にも適用できるわけです。そう考えると荷は重いですが、やりがいがありますね。

 個人同士で、電話(音声)が当たり前の通信手段として使われているように、双方向で大容量の情報(データ)をやりとりをするネットの時代が、そう遠くない将来にやってきます。その時に、市民の方が使いやすいネット環境、そして役立つ情報が提供できるよう、現在はその基礎固めをしている最中。それが終わると、市民の皆さんが抱えている問題を解決するシステム作り。1人でフラリと1〜2週間、旅に出るのが好きなんですが、どうやらしばらくはお預けのようです(笑)。


KCNホームページ


「e・ザ鎌倉・ITタウン」。鎌倉市から作業を移行し、現在KCNで作成・運営している鎌倉市の情報ページ


「韓国では安宿でもパソコンが置いてあり、無料でインターネットでメールが使えました。鎌倉も早くそうありたいものです」(片岡さん談)

現在は荒れ野となった『永福寺』に思いを寄せる。
そのひと時、鎌倉時代にタイムスリップ

 私は二階堂の山奥に住んでいまして、毎日の通勤の時に『永福寺跡』の横を通るんですよ。 ご存じのように、『永福寺』は、頼朝が建立した大寺院のひとつ。広大な寺域に壮麗な大伽藍があったようですが、 1405年に焼失し、いまでは「つわものどもが夢の跡」何も残っていません。雑草が生い茂る野原となっています。 『永福寺』については、調べれば調べるほど、そのなぞは深まるばかり。毎日横を通るたびに、 「頼朝は、中尊寺・毛越寺のどこの景観に似せて作ったのだろうか」「阿弥陀堂や薬師堂は本当にここにあったんだろうか」 など、当時の様子を頭に思い浮かべています。あそこは、私の想像力を毎日かきたててくれています(笑)。 また、秋の夜に晧々と映える月夜などは、北条の武士が鎧をガチャガチャさせながら山を駆け廻る様が 見えるような気がするんですよ。

 鎌倉に移り住んできて、鎌倉に関する本を数多く読み漁りました。もちろん鎌倉時代の基礎資料である『吾妻鏡』は 面白かったのですが、『鎌倉史蹟疑考』(東京美術)や『鎌倉廃寺事典』(有隣堂)などが特に興味深かったですね。 何も残っていないのに昔の人の考えや、当時の風景に思いを馳せることができる。鎌倉という街はおもしろいですね。

 私の「鎌倉好き」は、原始仏教に興味があることに源を発するかもしれません。仏教は「人生の考え方」を教えてくれます。 目の前にあるものではなく、その「裏」にあるものを見るんです。ですから、お寺巡りをしても、「建物を見る」というよりは 「その裏にある何かを見る」。たとえば、『建長寺』はお寺なのですが、そこの本尊は地蔵菩薩。 すると「ここは以前、処刑場だったからお地蔵さんは欠かせないのかな?」などど考えてみたりする。 私の頭の中はまたもやタイムスリップです(笑)。

 鎌倉時代というのは、東日本と西日本とに文化を分けた時代です。 頼朝は、東にも西の文化に負けない街つくりを鎌倉の地で始めたのだと思います。 それが、奈良の大仏に対して、鎌倉の大仏なわけです。そういう意味では、国はもっと鎌倉を大事にすべきだと思いますね。 現在、私と同じような「中世都市鎌倉」に夢を抱く仲間たちと、「中世鎌倉の模型」を3000分の1に縮小して作ろうと計画中です。 今年の秋には完成させる予定です。みんなで昔の鎌倉に思いを馳せながらワイワイ作っています(笑)。


永福寺跡。復元される計画がある


永福寺復元模型。堂前に池を設け、中央の二階大堂を中心に両翼を広げたように、薬師堂と阿弥陀堂を配した平安風の壮大な寺であった。現在は「二階堂」という地名のみ残っている


「中世鎌倉の模型」を作るために、東京・神田の古本屋で地図を購入したそう

Copyright (C) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2001 All rights reserved.