鎌倉にゆかりのある方にお話を聞く…第10回 My 鎌倉
今回のゲスト
林欽市さん(鎌倉海水浴場運営委員)
 林さんは現在、鎌倉市海水浴場運営委員会委員長として、鎌倉の海の発展に尽力をなさっている方です。また、親子三代にわたり浜の湯という海の家を経営なさっている、海辺で暮らす人でもあります。そんな林さんに、鎌倉のまちにおける海の成り立ちと、これからの海の姿についてお話を伺いました。

「鎌倉の海に想う現在過去未来」

 私が勧める鎌倉という稿なのですが、ここでは「鎌倉のこの場所」という限定ではなく、鎌倉の海というものについてお話をしてみたいと思います。というのも、鎌倉は神社仏閣の町というイメージですが、まち並みで海が占める役割が大きいものであるという実感があるからなのです。鎌倉にお出でになる観光客は、北の入口は大船方面から入って北鎌倉、東は逗子の方から、西は江ノ島方面から入っていらっしゃいます。しかしみなさん神社仏閣を見ても、最後は海のある南にいらっしゃるんです。お寺やお宮、仏像や建築物に対面して何かを求めていらっしゃった方も、最後はなぜか海へ足が向くようです。奈良、京都、鎌倉、の古都のうち、海を有しているのは鎌倉のみです。この景観は鎌倉らしきを生み、人々のオアシスとなっています。  ご存じの方も多いかとは思いますが、鎌倉の海の歴史について、簡単に触れたいと思います。鎌倉は幕府が京都に移った後、ただの寒村になりました。細々と江ノ島詣でがあったくらいでしょうか。その後時代が下って、江戸が東京に変わり、徳川幕府時代に外様だった源氏の子孫は政権が交代したとはいえ、東京には住みたくないという気持ちがあったようです。島津、鍋島、加賀などの人たちは鎌倉に別荘を持って鎌倉に住むようになりました。これが鎌倉が明治・大正・昭和と経て、今日の賑やかさをもった原因のひとつになった訳です。また、鎌倉にはそういう家に仕えていた人たちや商家なども集まりました。海岸線に肉屋、魚屋、八百屋など、日用品を取り扱う商人が人口の割に多いのはそういう理由なのです。こうして大名の子孫たちの別荘地から始まった近代の鎌倉なのですが、観光地的な発展を遂げる中心になったのは、神社仏閣などの文化遺産ではなく、海からでした。元来海は、禊ぎをするといった神聖な場所として利用されてきましたが、明治以後健康の為に海水につかって日光浴をして皮膚を鍛えて病気を治しましょうというヨーロッパナイズされた考え方が、ドイツから入ってきました。明治18年頃、当時の衛生技監だった長与専斎博士やドイツのベルツ博士などが盛んに鎌倉の海を薦めたわけです。今は由比ガ浜の海浜公園のテニスコートになっている場所に海浜ホテルという保養所が建ち、海水浴という文化が根付いた訳です。その後戦争を挟んで米軍に海岸を接収され、鎌倉の海は再び注目されました。昭和25、6年から東京オリンピックの39年にかけて、鎌倉の海はひと夏380万人、日曜日の人出は40万人といった規模の行楽地になりました。横須賀線電車が着くと、駅から海岸まで1.5キロが人でつながってしまうほどでした。当時、鎌倉の海岸近くの住民は、夏場行楽客相手に貸間をしたり、海に出店を出したりするだけで、1年間生活できるくらいの収入になったものです。  しかしその後、東京近辺の行楽地は分散されることになります。交通機関が発達し房総や伊豆方面の海に人が繰り出し、また海以外の夏の行楽も多くなってきました。昔は海水浴という括約だけで海を捉えることができたものですが、今は全く違うと思われます。観光客にとっての海だとしても、海水浴なのかマリンスポーツなのか、眺めるだけの海なのかも知れません。また、地元の漁師さんにしてみれば生活の場でもあるわけです。そういう多様な価値観が同時に存在する環境で、何か新しい形で海というものを提供しなくてはいけないと考えています。  観光資源としての鎌倉の海は、確かに一時期に比べて落ち込んではいます。ですが、鎌倉の歴史800年のうち、海水浴の歴史はたかだか100年です。海水浴の衰退が即、鎌倉の海の衰退につながっていくとは思えません。鎌倉という町は、神社仏閣や色々なお店、そして海というものでひとつの世界を作り上げているといえます。その世界の中で、海というものがどういう役割を果たしていけるのか、海の持っている価値を最大限に発揮することがこれからの課題だと思っています。
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