第87回 My 鎌倉   logo1
今月のゲスト

鍋島 久夫 さん

鎌倉シチズンネット理事長

[2015.11.27]
鍋島久夫さん

なべしまひさお さ んのプロフィール
昭和14年(1939年)  満州国大連市に生まれる。
昭和19年(1944年)  静岡県戸田村へ転居
昭和21年(1946年)   福島県相馬群 中村村立第一小学校入学
昭和23年(1948年)  神奈川県中郡 大磯町立小学校へ転校 
昭和25年(1950年)   4年生3学期に鎌倉市立小坂小学校に転校
昭和26年(1951年)  8月大船小学校創立により転校
昭和27年(1952年)  大船小学校第一期卒業
昭和33年(1958年)
~昭和37年(1962年)
  
慶應義塾大学でボートを漕ぐ。
昭和37年(1962年)
~平成12年 (2000年)
 
会社勤め。
平成13年(2001年)    鎌倉シチズンネット「KCN」へ入会(同年6月KCNはNPO法人となる)
平成13年(2001年)
~平成24年(2012年)
 
早慶レガッタOB対校クルーとして出場 
平成18年(2006年)  KCN理事長就任 
平成24年(2012年)  NPO法人宮ケ瀬湖ボートクラブ会長就任 
        
鎌倉へ
 
 満州国大連市で、昭和14年生まれました。終戦前に内地の伊豆に転居したので引揚者の苦労は経験せずにすみました。昭和21年戦後第一期生で小学校に入学。父の仕事の関係でおよそ2年毎に引っ越しを重ねて大船に住むようになったのは4年生の冬でした。満州は寒いですが雪は少なく雪の思い出がありませんでしたが当時の日本は寒気が強く大船でも30センチぐらい積もることは当たり前でした。 駅には蒸気機関車が貨車を、電気機関車が客車を引いていました。客車は前後の扉が明けられていて通勤時間には乗客が作業デッキの手摺りにもぶら下がるように鈴なりに乗っていました。



大船のこと

 大船の住まいは当時「田園」と呼ばれた街で駅から5分という立地でした。私の鎌倉とは大船のことでした。大船はイギリスの都市をモデルにした「Ofuna Garden City」として区画整理と都市計画のもとに作られた街の名残で、きれいにな町並みは煉瓦歩道と銀杏並木道で区画されていました。しかし開発が昭和恐慌と関東大震災で中断したため放射状区画は作られませんでした。東京の田園調布はこのガーデンシティのあとに作られたそうです。

 我が家もガーデンシティのモデルハウスのひとつであったようで、鎌倉中央図書館がまとめた「鎌倉近代史資料集第13集」にN邸として紹介されています。両親亡き後立て替えたので今はありません。

 この近代的町並みも戦争で物資がなかった時代には、道路が畑になっていたところがあちこちにありました。道路が舗装されるようになったのは戦後もかなりたってからのことで、駅前が舗装された時には記念運動会が開かれたことを思い出します。当時は映画全盛時代で松竹撮影所を中心とした街並であったと記憶しています。駅前には映画関係者が泊まるホテルもありそれなりに賑わっていました。
 
 大船のもう一つの象徴として観音様がありますが昔は作られた当時のまま肌がざらざらとしたコンクリートでした。その後現在のきれいな化粧した姿になりましたがその当時は誰も見まわる人もなく、体内の芯になる鉄塔を登って遊んだ覚えがあります。
 
 私が5年生の時小学校は小坂小学校と大船小学校に別れて大船小学校の第一期卒業生になりました。
大船中学では第八期卒業になります。今でも小学校中学校の同期生といろいろな集いに参加しています。
小学校を卒業して10年目ごろに当時の校長先生のお声掛けで大船小学校同期と同窓会(柏友会)設立に汗を流したことを思い出します。鎌倉で同窓会のある小学校は腰越小学校と大船小学校だけのようです。
毎年新しい卒業生が会員になり各卒業期毎に連絡係を置き同期会やクラス会などを楽しく進めると同時に、今ではPTAと二人三脚で学校に時計台の寄付や運動会の優勝旗・講堂の緞帳の更新などの活動しています。



バードウオッチング
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 キリアイ  やまがら雛

 50歳を過ぎる頃、妻からそろそろ「何か趣味を持ったら?」とのアドバイスで(定年で家の中をごろごろさせないため?)鎌倉の野鳥観察会に参加するようになりました。その後小学校、中学校からの友人に誘われ教養センター講座卒業の仲間で作る野鳥観察会に加わりました。 それまでは会社勤めの合間に一人で砂浜で投げ釣りをするぐらいの趣味しかなかったので、大勢の仲間で情報交換などを楽しめる野鳥観察会はごろごろしないで済む趣味としてお勧めです。野鳥観察は例会以外でも山野を巡り、観察場所まで歩き、そこでじっとして野鳥を待ちます。そうしないと野鳥が逃げてしまうからです。

 指導してくださる方は日本野鳥の会の方々で鳥以外草や木・虫などのことも詳しく、仕事を離れた知識は新鮮で楽しく、いつの間にかはまり込むこと間違いなしです。




ボート漕ぎ
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 マスターレガッタ  宮ヶ瀬湖漕艇場
 
 大学時代4年間活動したボートは、その練習の厳しさからまさかこの年で漕ぐなど想像もしていませんでした。会社を定年で辞めた年、大学時代の先輩から横浜の鶴見に漕げるところがあるから来ないかと誘われて行ってみたのがきっかけで今でも漕いでいます。 シニアのボート漕ぎが盛んになったのはその頃からだと思いますが、今では世界マスターズレガッタにも大勢の方が参加しておられます。私もクロアチア大会に参加しました。

 ボート漕ぎは全身運動で体全体をバランスよく使って運動するので、水泳に似た疲労感があります。 年齢に応じた力で漕げることが生涯スポーツ向きと考えています。15年前漕ぎ始めた時に、10歳以上年上の先輩が鶴見の大会で漕いでおられましたが今でも一緒に漕いでおられます。 私が今76歳ですからその方は85歳以上ということになります。
 
 5~6年前から世界にならって全日本マスターズレガッタが開催されるようになり日本全国はおろか、外国からも参加クルーが来るようになりました。 明治時代に英国人が学校教育の一環として導入し横浜から始まったボート競技はロイヤルスポーツとして定着しました。 水上競技なので一歩間違えば死に繋がりかねませんが、それだけに究極の団体競技だと思います。チームワークが大切で、同じボート競技を経験した仲間は学校などの垣根を越えて協力して楽しんでいます。



ボランティアのこと
 
 現役の社会人だったころ小学校時代の友人が楽しそうにボランティア活動の話をしているのを聞いたことを思い出しますが仕事で頭がいっぱいだった為自分には縁がないことだと思っていました。

 ところが定年で仕事がなくなった時、ちょうど鎌倉市の事業としてパソコン講座を開く為アシスタントの募集が有り早速友人からの誘いで応募しました。この時のアシスタントと以前から鎌倉市役所とIT関係の支援をしていたグループを纏めて立ち上げたのが鎌倉シチズンネットです。ちょうど国の方針でNPO法人の立ち上げを推進している時期でこの会もすぐに申請して間もなくNPO法人鎌倉シチズンネットとなりました。2001年6月のことです。

 それ以来鎌倉市との協働でパソコン講座の補助講師を引き受けると同時に自前のパソコン教室も立ち上げました。以来今日まで教室の運営と鎌倉市との協働事業で不用品登録制度のリユースネットかまくらシステムを運営しています。
 
 パソコン教室は受講生の大半がお子さんからのお下がりの古いパソコンのため、いつも様々なバージョンのOSやアプリケーションソフトに対応することが必要です。他の営業目的の教室が新しいバージョン中心なのに比べて大変ですが生徒さんにはとても喜ばれています。

 また個人的には、鎌倉のNPOセンターの協働事業推進部会のメンバーとしてセンター加盟団体の協働提案事業のお手伝いもしています。他にも宮ケ瀬湖を本拠地として活動している認定NPO法人宮ケ瀬湖ボートクラブの会長も引き受けており、いつの間にかどっぷりとボランティア活動にはまっています。これからも体力の続く限り趣味とボランティア活動を続けようと思っています。



編集後記

 日々ボランティア活動に時間を費やし、土日はボートの練習や大会に参加し、時間を見つけてはバードウォッチングに出かけるなど忙しくされている鍋島さん、これからも更にパワフルにご活躍されることでしょう。



リンク集

NPO 宮ヶ瀬湖ボートクラブ
鎌倉シチズンネット



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