第69回 My 鎌倉   logo1
今 月のゲスト

戸口 和江さん


教育者


[2011.3.17]
  戸口和江さん

とぐちかずえさ んのプロフィール
1922年(大正11年)  横浜市に生まれる。
1941年(昭和16年) 神奈川県女子師範学校卒(数学専攻)
1941〜1951年(昭和16〜26年) 横浜市・長野県・逗子市小中学校教諭
1951〜1973年(昭和26〜48年) 鎌倉市御成小・第一小学校教諭
1973〜1979年(昭和48〜54年) 玉縄小・第一小学校教頭
1979〜1983年(昭和54〜58年) 第一小・第二小学校校長
1983年(昭和58年) 定年退職
1983〜1987年(昭和58〜62年) 神奈川県教育委員会管理室総務課嘱託・鎌倉文学館資料整備室非常勤
1992年(平成 4年)〜 鎌倉シルバーボランティアガイド協会ガイド・会長2期
1997年(平成9年)かながわボランティアガイド協議会会長
2005年(平成17年) 瑞宝双光章受賞
2008年(平成20年)〜 鎌倉検定鎌倉市民の会講師



■鎌倉との出会い

昭和20年担任の児童 を卒業させ、自宅は空襲で焼け長野県に疎開しました。5ヶ月で終戦、21年の春に神奈川県逗子に「戦地から復員するまでの条件」で家を見つけ移り住み、逗 子小学校に勤務しました。1年後学校の六三制が始まり卒業させた児童と共に私も中学の教師となります。落ち着いたところで鎌倉に住みたいという父の願いを 実現するため、休日は家族で鎌倉の家探しをかねて散策を重ね、遂に海あり山ありの稲村ヶ崎に家を定めました。

ある日師範時代にお世話になった先生と駅前で再会を喜び合いました。御成小学校校長となられていた先生に招かれ翌年4月転任、名実共 に鎌倉市民となりました。


■戦前・戦後

横浜の港に近い所で育 ち昭和3年(1928年)横浜小学校(現港中学)に入学しました。関東大震災から5年後の4月復興の横浜に天皇陛下の行幸があり、復興モデル校の横浜小学 校 を視察されました。鉄筋3階校舎・舗装された校庭・各教室前に弁当保温箱・水洗トイレ・中央にスロープ階段という校舎です。

ところがひ弱な体質で常に扁桃腺を腫らし、遠足・運動会の翌日は発熱する情けない状態で、医師に「郊外の空気の良い所に住むといい。」といわれました。

東横電車(今の東急)開発の分譲地に家を建て地元の大綱小学校に転校したら、なんとトタン屋根木造校舎、雑巾掛け掃除という余りの格差で学校嫌いになりま した。机上の勉強は優位に立っても、生物の勉強になると実物を持ち寄るために農家の子に教えられます。池や田に行き泥足で帰っても親は叱らなくなりまし た。そのうち発熱もせず皆勤賞を戴く事になり体質改善の目的を達しました。学校は進学児童が増したので6年生になり教科指導のレベルアップを計り、(当 時の)算術が大好きになり目的の高等女学校に進学しました。

昭和14年は女性に大学進学の道は閉ざされ、高等専門学校が若干あっても神奈川県には無く、師範学校の高女卒課程(40名)に入りました。日華事変は拡大 し女性教師の活躍を期待され、体育・精神力を高め、薙刀教育を受けます。

昭和16年卒業で国民学校が発足し、私は母校大綱小学校に着任、5年生担任で5年生以上の全女生徒に薙刀教育を指導する週33時間勤務に張り切りました。

第二次世界大戦の悪化に伴い横浜空襲で長野県に疎開し南佐久郡海ノ口小学校に着任しました。高等科担任として雨の日授業、降らなければ学校の田畑と出征兵 士の家の農作業を手伝います。高冷地の農業の特色、高等科生徒の逞しい存在を理解できたのは農家の子と遊んだ経験が役に立ちました。環境による教育の質と は一律ではなく地域の特色があってもいいのだと納得しました。

戦後に残った日本を再生しようという作文をそれぞれに書いた逗子小学校の児童は教科書や生活用品が不足でも我慢して、未来に希望を持っていました。長野か ら神奈川と職場が変わった教師は新しい教育論を前面に出し易く、10年以上勤務の教師に対し社会科や新憲法の研究などの講習を土日に課せられまし た。休日返上でも不平を唱えないのは義務教育の延長や新しい教育の研究を志していたからです。

中学校教諭となって地理・歴史教育の停止が解かれ「新しい杜会科と家庭科を研究せよ」と命じられ、当時の文部省に情報を求めにいきま した。暗記物といわれた地理に統計図表から考える能力を養う事、歴史は石器時代からで神様は消え、すべて西暦年教表記、男子にも栽縫をさせる家庭科に教師 も保護者も戸惑う改革でした。GHQ (注1)の関与があったからで後に日本国の存在を意識して修正されて今 日に至っています。

(注1)GHQ(General Head Quarter):占領軍最高司令部


鎌 倉教育の 思い出

目本が独立国として再 び認められた年に鎌倉の御成小学校に転任し、日本教育本来の道を歩く世の中になりました。児童数が増して教室不足になり、校長は講堂・職員室まで教室にして二 部授業は避けました。「教室を見れぱ学級経営が分かる。長所は取り入れ、教材は深く自分が研究し、人の指示を待つ教師は伸びない。」校長の口癖に乗って独 自の境地を模索しました。

(例)毎日5分間計算問題を与えると回答数が伸び、10回程で止まれば習熟度を示すという実験
これは単なる技術で思考力ではないが、この次のステップに発展させる底力となるという結輪を得ました。研究的な態度で指導することで、児童も日々向上する 成績に満足気であった。


■教師時代の思い出

鎌倉の家庭は教育レベ ルは高いので一週間の学習予定表は前週に渡しておくと保護者は安心します。高学年ならある程度の予習をして登校させ、歴史なら他県の児童より豊かに鎌倉市 の史跡や社寺を生活に取り入れて指導します。教科書だけでなく教科書を元にもっと発展させる教育が必要と思っています。

最近学級崩壊が問題になっていますが、私は経験していません。級友間に優しい気持ちが無いことや担任不信の感情から起こるので先ずは 担任が各児童の能力・行動の優秀性を認め信頼関係を保てば解決します。転任先の学校で評判の悪い組を担任してくれと言われましたが、クラスに行き開ロ一番 「学年で一番いいクラスにするからね。」と宣言し、学校嫌いの児童には「早起きできそうな子ね、学級委員と一緒に30分前に登校してね。」と校門前の横断 歩道で交通整理を頼みました。果して来るか・'・・いました。委員が彼を囲んで黄旗を持って準備していました。登校してきた下級生が挨拶し、先生方が「新 6年偉いぞ!」と声をかけてくれ一週間無事過ぎました。4週間後もまた無事に責任を果たし、卒業まで続けた彼に級友からの信頼も生まれ、叱らずに更生させ た思い出が残り良いクラスになりました。

そのときの学級委員は平成7年に芥川賞をとり「鎌倉育ちの作家」と成長し折りに触れて著書を届けてくれます。


久木中学校
久木中学校時代 (お断り)

(お断り:編集者)
この写真の著作権者未確認です。関係者はKCN にご連絡下さい。


社会科指導員として
当時指導主事のほかに 教諭の中から教科指導員を置きました。会議の日午後の授業を間に合う時間のギリギリまですませ、出席します。会議や研究校に出て話し合うことは全市的な問 題にも接し、いい勉強になりました。この頃から女性の活動分野が広がってきたのです。


■管理職の時代
教頭時代
次の学期のカリキュラムを作り終えたら発令を聞かされました。「初の教頭」と 「初」がつくことと、クラスの児童から離れる寂しさが嫌でしたが、大都市で戦後どこにも教頭職があるので女性の分野を広げるために定着させようと考えました。先輩教頭 はかつて同僚であったので親切に迎えてくれ、校長には対外的な仕事について細かく教えていただきありがたいスタートでした。校長の
「動」に対して「静」、「静」に対して「動」一体となった経営を心がけました。

校長時代
上司の校長先生が定年 退職となったので、そのまま自校昇任となりました。教諭時代と教頭・校長と続けて歴史ある学校に勤めさせていただきましたが、一年後全く新しい学校で定年 までの自分のカを伸ばしたいと思いました。

 転任先は第二小学校で、校庭を広げ体育館新設と校舎増築中で、これぞ自分に与えられた学校と思いました。八幡宮から東へ横浜市に 接する学区で室町時代初期に、鎌倉公方の御所が置かれた地域だけに有名神社仏閣が並びその児童が通学してきます。新しい住宅団地も開発され転校生が毎日 入ってきて千人を超す学校になりました。史跡の豊富な鎌倉らしい地域と「頼朝さん」と親しげに呼ぶ子供達を見て鎌倉研究を深めようとしましたが親の介護で 少し後になります。

 6年生と卒業までにじっくり話し合いたく、数名ずつ校長室に呼び給食を共にしました。話題は様々、硬くなっていた子が次第に寛ぎニコ ニコ話すうちに6年生としての完成度を観察し、担任にも報告します。

増設した諸施設は完成し近くの第二グランドを使って体育研究の発表会を開きました。緑に恵まれた環境で将来を見据えて学習する児童の瞳 と教職員、協力するP.T.A.、給食職員、用務員、なんとも楽しい思い出が残る教員生活でした。


■退職後
県の教育委員会は関内 駅の近くにあります。県内の教育事務所を参事等と視察し、人権関係のお仕事で県政の一部を勉強しました。

元前田侯爵家が昭和11年に建て替えた家と敷地を昭和58年に市に寄贈され鎌倉文学館になりした。発足間もない時期でしたから職員と 共に図書のカード作成に追われましたが、介護のため週6日午前中だけの勤務とし、午後は病院に付き添う。

その後24時間完全介護の必要からお勤めは5年間お休みです。学校退職後8年半、旧職員から思い出会のお誘いがあっても出席できず、 私の自由時間は夜の9時〜12時で時代に取り残されぬようワープロを勉強しました。

■かまくら子ども風土記


初版は昭和32年 鎌倉の変化に応じて改訂し最新版は13版です。私は11版・12版・13版を数人の先生がたと教育センター研究員として携わりました。4分冊をまとめ1冊にしまして世界遺 産登録候補地解説・発掘の結果なども載せました。

こども風土記 子ども風土記
「かまくら子ども風 土記」 第13版 「かまくら子ども風 土記」 旧版

浜の大鳥居跡が発掘されたのは1990年(平成2年)で、若 宮大路に電線を地中に埋めたときに発見されたものです。これは1552年(天文21年)にできた最後の木造大 鳥居の跡です。

江戸時代、二代将軍秀忠夫人お江の方(崇源院、2011年NHKの大河ドラマヒロイン) に「木造の鳥居はもたないから瀬戸内海の犬島の石(花崗岩)を用いるがよい」という夢のお告げがあり、この場所より200メートル海寄りから一・二・三の鳥居を建て、 1668年(寛文8年)に完成しました。

大正12年の関東大震災で二基が失われ、今も残る一の鳥居は修理して健在です。

解説板 大鳥居跡
解説板(画 像クリックで拡大) 大鳥居跡


鎌倉シルバー・ガイドの道


平成4年介護生活は悲 しい結末で終わりました。しかし社会での活躍を支えてくれた姉に御礼の限りを尽くしたので悔いは残りません。

鎌倉の研究に方向を替え ることにしたとき、市がガイド募集を始めました。介護中でも市教委の『鎌倉子ども風土記』改訂委員として全4冊の執筆に当りましたから供養をしながらこの 道を目指そうと決めました。合わせて退職女性校長会の役員の指名もきました。どうして次々と行く道が示されるのか不思議です。

ガイド養成講座は一年間、郷土研究家や考古学教授・建長寺他有名寺院のご住職・市の文化財課職員などが講師です。電話申し込みですが電話が繋がらず通じた ときは満員、半年後は3倍の応募があり抽選で入りました。途中テスト3回、レポート3回提出を経て合格すると会員になります。

自由参加とガイド協会募集コースと団体申し込みの3種あります。ガイドの存在は珍しがられ初期には一日40〜50人、今では1日に 100〜200人くらい応募されます。今はガイドを100人揃えNPO組織となりました。ガイド範囲は鎌倉市全域、関係ある横浜市金沢と江ノ島、ときに横 浜市栄区や逗子・三浦半島に及びます。

事務所は滑川の河口、消防署の海寄りにあります。毎月参加するリピーターがたくさんいて今年の秋創立20年の記念式を行う予定です。 室内に観光事業に尽くしたと表彰状を掲げてあります。

10周年のころ会長2期勤め、神奈川県内のガイド協会が加盟する「かながわボランティア協議会」の会長も務め質の向上を図りました。

鎌倉のガイドといっても鎌倉時代のことだけではなく 「縄文時代の古いことや昨日の文化庁の発表」など常に最新情報も加え、古文書を研究した事も話します。遊覧バスのように決まった台本を持って説明するでも なく、小学生、花巡り、山歩き、文化財、武家文化など訪ねる人のニーズを聞いてどのようにも変化させるのが真の「おもてなし」と考えています。世界遺産の 研究で発掘して新しい事実が証明されます。事実と伝説は分けて説明しますが、伝説は嘘と言ったら失礼になります。「伝説が伝わったことは当時の人が観音様 を信じたから伝わったのですよ。」と言うと偉大さがほんのりと伝えられます。

一般募集で一日一緒に歩いた人に次は指名で頼まれ鎌倉・江ノ島・金沢と何年もかかって歩き通した人や団体がいくつもあります。中には その都度撮った写真を元に絵を描き、説明を加え記念誌を作った方、「十年かけて歩きこのごろ歩けません。午前中歩いてお食事の後お話会にしましょう。」 「国宝館・文学館・吉屋信子記念館の中をじっくり見たい。」など新しい注文もきます。すっかり仲良し友達になりました。

「仏様は薄暗い中で拝見しても気味悪かったのに指の形、髪の長さ持ち物、姿勢みんな意味があることがわかりました.京都旅行をその見方でしたいです。」

大仏を見た小学生から「お顔の右頬に金が残っていたと家に帰って言ったら皆知りませんでした。」などお手紙をいただくのはうれしいことです。

 駅前で別れるとき「よく覚えていますね。」と、これは御札の挨拶だと思いますが「よく知っていますね。」とか「いいお話」といわれる ように努力しています。一期一会満足気に帰られる方を送るとき私もホッとします。


鎌 倉検定

京都の例をみて鎌倉で も実施しようということになり、鎌倉検定市民の会を結成。商工会議所主催として受けてもらいました。 今年(2011年)で5回目となります。検定の内容はかなり難かしいです。 例えば通称「銭洗い弁天」は「銭洗弁財天宇賀福神社」が正解です。 私は検定市民の会の立場で講師をつとめています。


■叙勲
平成17年(2005 年) 瑞宝双光章を戴き皇居では陛下からお言葉を賜りました。

瑞光双光章 受賞
瑞宝双光章

(編集者注記)

瑞宝章は、「国家又ハ公共ニ対シ積年ノ功労アル者」に授与すると定められ、 具体的には「国及び地方公共団体の公務」または「公共的な業務」に長年にわたり従事して功労を積み重ね、 成績を挙げた者を表彰する場合に授与される(「勲章の授与基準」)。

勲章のデザインは、古代の宝であった宝鏡を中心に大小16個の連珠を配して四条な いし八条の光線を付し、 紐には桐の花葉を用いている。


■ リ ンク集


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