第50回 My 鎌倉  
今月のゲスト

 

大貫 昭彦さん


随筆家

    鎌倉の花・樹木、古建築を中心に歴史、史跡、文学、音楽など、鎌倉のすばらしさを多面的に伝えたいと、著述、カルチャースクールや講演会の講師、寺社めぐりなど、日々精力的に活動しています。


[06.8.17 鎌倉生涯学習センターにて]


大貫 昭彦 さんのプロフィール
1938年(昭和13年) 横浜生まれ。67才。1961年(昭和36年) 国学院大学文学部卒。1984年(昭和59年) 公私立中高教諭を経て、独立。 長谷5丁目に在住。
現在、月刊誌「かまくら春秋」、生活情報紙「リビング湘南」等に随筆連載。各種カルチャースクール講師。




■鎌倉の花にめざめる
    子供のころから緑の中で昆虫採集などに熱中し、草花と親しんでいたことは確かです。しかし、一番のきっかけは、女子高校教師時代、文芸部の顧問をしていた時のことです。生徒が鎌倉をテーマに取り上げてきたのです。
    鎌倉五山を始めとする古刹があり、男性的なところというイメージを持っていましたので、”女の子たちがなぜ”と戸惑ったのです。 (笑い)
    しかし、すぐになかなか面白いところだとわかり、これが鎌倉に関心をもつきっかけとなりました。

    生徒に付き添っていったある日、建長寺で『アンアン』や『ノンノ』といった雑誌を持った若い女性たちの多いのに気がつきました。なんでこんな若い人がお寺に、とはじめは不思議に思いました。やがて、彼女らは花や緑、そしてそれらの雰囲気を求めてやってきていることに気づきました。とりわけ花に関心が高かったのです

    その時、いつ、どこのお寺で、どんな花が見られるかのデータを集めてみてはどうだろうかとひらめいたのです。(笑い)



    最初に参考にしたのは『牧野植物図鑑』です。いろいろなお寺のご住職と知り合いになり、ときには情報を交換するような関係を深めるうちにデータがまとまってきました。

    たまたま、同じ職場の教師で写真の得意な大久保敏郎さんがおりましたので、共同で原稿の作成にとりかかりました。 出来上がったところで、東京の出版社を尋ね歩いていたところ、明治書院のなかにある真珠書院とのご縁ができ、1969年に『鎌倉・花あるき』という、ユニークな本が出来上がりました。

    その本の帯に、”人は歴史の都を訪ねる前に、そこの展開されたさまざまな事象や文化の継承、築かれた建造物への思いを寄せる。(中略)本書は長い年月、ある日は絢爛に、ある日はひっそりと共に生きてきた花々にスポットライトをあて、古寺の訪問により風情を添えようと書かれた書物である。”と書きました。これがわたくしの出発点となりました。

    その後、日蓮宗新聞に、光則寺の住職だった横山邦雄さん、妙法寺の住職夫人藤田喜美子さん、俳人安達智恵子さんと連載したものが『かまくらの花 −四季の寺々をたずねて−』(1961年)として同社から出版されました。

    そのころ、『花の歳時記』(居初庫太著)があることを知り、1つ1つの花にそれぞれの歴史と文化や物語があることに感激しました。この本はわたくしのバイブルとなり、ボロボロになるまで読みました。
    ”教養”とはまさにこのようなものだと学びました。今日ここに持ってきたのも大分傷んでいますが2冊目です。(笑い)

    この本がきっかけで、歴史に関心が広がり、いろいろな文献を渉猟するようになりました。本棚にも、歴史、考古学、仏像、 文学、建築、植物、宗教などありとあらゆるものが並んでおり、メチャクチャです。我が家においでの方は、わたくしが何者かと不思議がります。(笑い)

    そのようなわけで歴史にも興味を持つようになり、相模の霊山大山の麓を歩くことになりました。2年ほどしてその結果を『相模野・相模路』(1978年)として出版しました。相模路を古代、中古、中世、近世、近代と分けたのです。
    この時、多くの石仏や古建築とめぐり合い、特に石仏に興味を持ったことから、鎌倉にある石仏を調べるようになり、もっと広い視点から鎌倉を見るきっかけとなりました。
    これがご縁で日本経済新聞社などいくつかの新聞社のカルチャー講師になりました。


■鎌倉のお寺と花めぐり
    住職さんやお寺の方、檀家さんが花を愛し、自ら手を入れておられると、その庭は一段と親しみやすいものになります。東慶寺、浄智寺、明月院、妙法寺、瑞泉寺、光則寺などは昔からよかったですね。

    わたくしは写真をほとんど撮りません。花を見るとき、写真を撮ったり、建物を見たりするのは散漫になりますからしません。花を見るなら花だけにしないといけません。現在の状態を見、いつごろ咲き、いつごろまで咲いているだろうかなど、細かいところまで確かめてみないとポイントがぼけてしまいます。このようなことを積み重ねないと、今年の花は早いとか遅いとか言えないのです。

    これからの咲く時期ですね。実朝も萩について詠っています。

             秋風はいたくな吹きそ我が宿の
                          もとあらの小萩ちらまくも惜し
                                                                   (金槐和歌集)

    東北の宮城野萩は優雅なので公家が楽しみました。実朝も公家に憧れましたから、庭に植えたものと思われます。

 

   一方しだれの少ない錦萩というものがあります。そのなかで白い花をつける白萩があります。 "萩寺"で知られる宝戒寺で見られますが、先代のご住職が植えられたものだそうで、もともと白い花が好きだったとのことです。 境内には、春には梅、白木蓮など、秋には、彼岸花も白で、萩とともに白一色ということになります。
    これは、案外気付かれないですが、宝戒寺が太平記の戦に散った北条一族を供養するために開かれたという歴史を通して眺めると、いっそうあわれ深い色に見えてきます。

    彼岸花の話がでましたので、時期でもありますのでちょっとお話してみましょう。
    赤い彼岸花は農業と共に弥生時代に中国からきたもののようです。たまたま海流に乗って流れ着いたという説もあるようですが・・・。それはともあれ、人里にこんなに増えた理由は、生活上の必要があってのことです。
    根に毒性(リコリン)があり、壁に塗りこむことでネズミの害から防げるという効果を期待してのことでした。また、土葬の場合には墓の回りに植えたり、田んぼの畦にも植えることで作物を野ネズミから守るようにしていたためです。

    ある村をひとりの植物学者が通りかかりました。そこで、老婆が一生懸命彼岸花を手入れしているところに出っくわしました。理由を尋ねましたが老婆は、”知らない、先祖からの慣例だ。”と答えました。ただ、”何年かに一度、山の奥の人たちがもらいにくる。”と答えたそうです。
    彼岸花は救荒植物だったのです。根を粉にして、七回ほど水にさらしてから、餅のようについて食べたのです。 彼岸花が人里に多いのはこうした理由のようです。


■鎌倉は歳月が作りあげたテーマパーク!
    鎌倉の魅力は、テーマがいろいろあることですね。歴史はもちろん、古建築、花、石仏、それに武士でも歌人が多くいるなど、切り口がいっぱいあります。訪れる方はどこかにひっかかり、リピーターになるのでしょうね。(笑い)
    わたくしがお寺をご案内するときには、お寺の歴史だけではなく、道すがらいろいろと目に止まったものをテーマにします。たとえば、詩人でもあり作家でもある三木卓さんの名作『路地』も鎌倉の不思議な魅力を描いています。曲がった道、カーブに続く生垣、そして多種類の竹垣・・・四ツ目垣、建仁寺、光悦寺、篠垣など、鎌倉は小道一つにも魅力があふれています。


■いろいろな活動を通して鎌倉を紹介
    現在、「つれづれ会」という会を主催しています。『徒然草』を読むことを目的としてスタートしましたが、鎌倉を見て回る会として20年以上続いています。
    また、「鎌倉を愛する会」の会長をしています。25年以上も前に三上次男さんが始めた会です。安田三郎さんのあとわたくしが受け継ぎました。鎌倉の自然環境を守ろうと、自然保護運動として寄付活動などをしています。100名以上の会員が支えてくれています。



    以上の活動に加え、NHKのカルチャースクール、三越友の会、高島屋ローズサークルなどの講師をしています。
    また、鎌倉は伝統芸能を楽しむにも適した環境を備えています。わたくしが作詞をして、薩摩琵琶奏者田中之雄さんが曲を付け、奏でるという会を8年ほどやっています。頼朝、実朝、政子など鎌倉に深くかかわる人物を取り上げ、皆さんに楽しんでもらおうと意図したものです。来年は、足利尊氏を予定しています。



◇最近の主要な著書

1.「鎌倉12ケ月の花歩き」 2003年 実業之日本社
2.「鎌倉 もののふと伝説の道を歩く」 2005年 実業之日本社
3.「かまくら古建築散歩」 2006年 湘南リビング新聞社

 

Copyright (C) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2001 All rights reserved.