庚申信仰って何?

(こうしんしんこう)


「十干十二支による、六十日に一度めぐってくる庚申(こうしん、又は、かのえさる)の日に、夜を寝ずに身を謹んで過ごす庶民の信仰のこと。」

道教によると、
「人の体の中には、三尸(さんし)という虫がいて、庚申の日になると天に登り天帝にその人の罪過を告げ、それにより寿命が縮まってしまう。」
といい、この災いを防ぐ方法の一つとして、
「一晩中起きていれば三尸も体から出ることもならず、天帝に告げられることもなく、寿命も縮まらない。」
と説いています。

典型的な形としては、庚申の日の夜になると当番の家に集まり、庚申の主尊である青面金剛の掛け軸をかかげた祭壇に、供物を備え、お経をあげるなどの厳粛な儀式をおこないます。
そのあとは飲食と歓談で夜明けを待つという、一種のリクリエーションの場であり、また情報交換の場であったといえるでしょう。

道ばたの石碑
庶民の信仰としての「庚申待」や、「庚申塔」が造立されるようになったのは、室町時代中頃からとわれています。

さて、このような信仰はわが国ではいつ始まったのでしょうか。
続日本後紀に、承和元年(834)、宮廷で「お庚申」を行ったと記録されているそうです。
ただし、当時は詩歌管弦を伴う遊戯が目的で、宮廷を中心に行われ、庶民のものではなかったようです。

また、鎌倉では、実朝が庚申の行事を行ったことが健保元年(1213)三月十九日のこととして吾妻鏡にみられ、その後も何回か記録され、将軍頼経もおこなったことが伝えられています。
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鎌倉の庚申塔について


●庚申塔の建立

鎌倉では、17世紀後半になって現在見るような庚申塔が立てられたといわれています。
年代が特定されていて一番古いものは、寛文五年(1665年:山ノ内八雲神社境内)のようです。
また、もっとも新しいのものは昭和17年(1942年)です。
そして確認されているのは、84箇所、284基です。
石仏
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●庚申信仰の現状

朽ち果てた石碑 木村氏によれば、
(昭和48年現在)市内で
「お庚申」を行っているところは、
十二所上、山崎下組、津村、
城廻打越、関谷下の講中
で、
そのほかにも「庚申講」という名で
集まりをしている所が
数箇所あるとのこと。


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