古建築のトップにもどる

title
|  境内案内  | 歴史 |
写真1 写真2

[ 寺号 ]     大 蔵 山    杉 本 寺 (天台宗)

[ 所在地 ]
     杉本寺へは、JR 鎌倉駅東口から金沢八景方面行きのバスに乗ります。10〜15分、バス停 杉本観音で降り、 進行方向に進むと、まもなく左手にあります。

[ 杉本寺の古建築 ]
     仁王門・本堂(観音堂)を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。

|  仁王門 |  本堂 (観音堂) |
Map niomon hondo
 
[ 境内案内 ]
     入り口からすぐ石段になり、途中の受付で拝観料を払います。石段の中ほどに仁王門があり、朱塗りの仁王様が左右に境内を守るように立っています。
写真5 写真3 写真4

     そのすぐ先の右手には大蔵弁財天を祀る社があります。小さいながら池もあり、立ち寄ってお参りしてはいかがでしょうか。(写 真下左)
(帰りは、向かって右手、この社の裏側にある石段を使いますので、ここの前を通りません。)

     正面には石段がありますが、保護のため立ち入り禁止です。(写真下右)
写真6 写真7

左側の別の石段を登ると本堂 (観音堂) のある平場に出ます。本堂はあがることができ、仏様を間近に拝むことができます。
写真8 写真9

     堂内には、中央に本尊お前立の十一面観音、右手には、毘沙門天、不動明王、観世音菩薩三十三応現身、左手には、新十一面観音と地蔵菩薩二体、一番左にはおびんずる様など多数の仏様があります。

     さらに、一番奥に祀られているのは、秘仏の三体の十一面観音で、中心が慈覚大師作、 向かって右手は恵心僧都作、左手が行基作で、覆面観音とか下馬観音とも呼ばれています。 ほのかな明かりの中に拝むことができます。

     本堂の右手には鐘楼。右手の奥には熊野大権現と白山大権現を祀る社があります。その社と鐘楼の間には、五輪塔などの石 塔や石仏が多数置かれています。
写真10 写真11
写真12 写真13

     裏手の山一帯は、境内を含め杉本城跡で、三浦氏一族の杉本義宗が築いたものです。鎌倉幕府が滅びてまもなくの延元二年 (1337)、朝廷方の北畠顕家が鎌倉攻めのとき、この城で攻防戦が行われ、足利方の斯波三郎以下300人以上の者が討たれたと 太平記にあります。
     苦境に立つ南朝を助けるため、顕家は東北を出発、藤沢方面から鎌倉に向かいます。足利義詮を守る軍を片瀬、七里ガ浜、 由比ガ浜と次々に破り、最後に杉本城を落としました。そのため義詮は一時三浦に逃れたとあります。

     ここは坂東観音霊場三十三番札所の第一番です。札所を巡る人は、ここから報国寺の脇を通り、やがて巡礼古道に入り、札所第二番である逗子の岩殿寺へと向かいます。
(第三番は大町の安養院、第四番は長谷寺と、再び市内に戻ります。)

このページのトップにもどる

 
[ 歴史 ]
     杉本寺の歴史は大変古く、天平三年(731)、僧行基がこの地を訪れ、観音様を祀る場所にふさわしいと考えたことからと言 われています。

     お寺の縁起よれば、天平六年(734)に光明皇后が東国を安寧にしたいと願い、右大臣藤原房前と行基に財を与え、お堂を建てさせ、行基作の十一面観音を安置したことから始まったとあります。

     ついで、仁寿元年(851)に慈覚大師が十一面観音を祀りました。さらに、寛和元年(985)に花山天皇の命で、源信恵心僧都が十一面観音を彫り、納めました。

     文治五年(1189)、火災によりお堂が消失しました。ところが、本尊の観音様三体は自ら杉の木の根元に避難してしていたということから、杉本観音と呼ばれるようになったといわれています。

     建久二年(1193)、源頼朝が、また建暦二年(1212)に源実朝が参詣したことが記録に残っています。室町以降の歴史は詳しくは分らないそうです。


このページのトップにもどる
古建築のトップにもどる

title