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|  境内案内  | 歴史 |
写真1 写真2

[ 寺号 ] 泉谷山 浄光明寺 真言宗 泉涌寺派 準別格本山

[ 所在地 ]
     浄光明寺は JR 鎌倉駅の西口を出て100メートルほどまっすぐ進み、スーパーが正面に、また鎌倉市役所の庁舎が左手に見える、信号のある四つ角を右に曲がります。7~8分ほど北(横須賀線の東京方面に平行)に進むと、 鎌倉五山の一つである寿福寺が左手にあります。その先は英勝寺で、その前にある横須賀線の踏み切りを(右手または東方面)渡ります。100メートルほど進み、T地路に突き当たった ところで右折、そこから100メートルほどの左手にあります。

[浄光明寺の古建築]
     山門、仏殿、不動堂を地図から見る場合は、下記の図の「白抜きの文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。

|  山門 |  仏殿 |  不動堂 |
仏殿 不動堂 山門
 
[ 境内案内 ]
写真3 写真4
    道路から参道を進むと山門(市指定文化財)があり、入ると左手に大きな客殿と、庫裏があります。右手には不動堂鐘楼があります。

     客殿には愛染明王(市指定文化財)ほかが祀られていますが非公開です。愛染明王は、頭に獅子を載せ、三眼、六臂で憤怒の相のお像です。願行上人 (1215-95) の作で、蒙古襲来の時には敵を破るためのご祈祷の際の本尊であったと伝えられています。

     右手の不動堂は延享二年 (1745) の頃に建てられた古い建造物です。中には通称八坂不動と呼ばれている、不動明王が祀られていますが、非公開 (除夜の鐘の時のみ公開) です。その手前の鐘楼梵鐘は近年のものです(1986)。 写真3

     一方、山門を入ったすぐ左手には、2004年建立の楊貴妃観音像が微笑みをもって迎えてくれます。京都(東山区) 泉涌寺の楊貴妃観音に魅せられた近藤清一氏という篤志家の依頼で当代一の長岡和慶仏師が彫り、当寺に寄進されたということです。
     境内の奥の一段高いところには仏殿などがありますが、正面の石段は閉じられていて、右手から登ります。
     このから先の拝観は、木・土・日曜のみで、雨・多湿の際は中止です。拝観料は200円。


     仏殿は市指定の文化財で、1668年建立の古いものです。現在は三世仏 (中央が釈迦如来、向かって左が阿弥陀如来、右が弥勒如来) が祀られています。

     仏殿の左手には収蔵庫があり、国の重要文化財 阿弥陀三尊(中央が阿弥陀如来坐像、向かって右の脇侍は観世音菩薩、左は勢至菩薩)が祀られています。阿弥陀坐像は堂々とした宋風の作りで、土紋装飾が特徴です。


     収蔵庫の左には矢拾地蔵尊が祀られています。
     足利直義(足利尊氏の弟)が戦いの場で矢が尽きたとき、子供の僧が矢を持ってきて助けてくれたということです。これがあとで直義が日ごろ信仰しているお地蔵様と分かりました。この伝説が名前の由来となったと伝えています。
     収蔵庫の先に観音堂があります。


写真10 写真11


     仏殿の右手には、墓石や石塔が並んでいますが、中でも鎌倉時代以来の鶴岡八幡宮(寺)の神主大伴家のお墓があり、笏型で鳥居がついたもので神道墓碑として貴重なものです。

     手前の新たな無縫塔形式のお墓は当寺中興第三世大三輪龍彦和尚のもので、鶴見大学の史学の教授として数多くの研究成果を挙げられ、今日の中世鎌倉の考古学を樹立されたかたです。


写真12      仏殿の前には根廻り 3m ほどの大きなの木がたっています。木の形がすぐれていることもあり、市の天然記念物に指定されています。 ここよりさらに山の中腹へ登る狭く急な石段があります。


写真3 写真3
     登ったところには、俗に網引地蔵とよばれている石造地蔵菩薩坐像(市指定文化財)が、"やぐら"とよばれるほら穴に 祀られています。像の背後に銘があり、正和二年 (1313) の造立といういうことが分かっています。

     さらにその上の山には、冷泉為相 (れいぜい ためすけ) の墓といわれる宝篋印塔形式の石塔が立っています。
     為相藤原為相 (1263-1328) ともいわれ、歌人藤原定家 (1162-1241) の孫でやはり歌人です。冷泉家の祖となりました。母阿仏尼は『十六夜日記』で知られています。
     為相の父為家 (1198-1275) の死後、為相と異母兄の為氏の間で領地相続の争いが生じます。思うような方向で解決しないため、為相の母である阿仏尼は直接幕府に訴えるため1277年に鎌倉にやってきました。やがて為相もその後を追って鎌倉にきて、当寺の近くに居を構えます。阿仏尼の京都からの道中と鎌倉での生活を記したのが『十六夜日記』です。

     徳川光圀 (水戸黄門 : 1628-1700) は延宝二年(1674)に鎌倉を訪れましたが、当地のことなどが『鎌倉日記』の中に書かれています。

     天保四年 (1833) 『東海道中膝栗毛』で知られる十返舎一九 (1765-1831) がここを訪れ、茶屋でお酒を飲んだとあります。このような場所にも人をもてなす所があったと想像すると何かほほえましくなります。

     この先は非公開 (毎年4月の鎌倉まつりの期間中のみ公開) ですが、覚賢塔とよばれる3メートルを越す、鎌倉で二番目に高い五輪塔があります。

写真3      もとにもどって、客殿の裏側には庭園と、背後の切り立った崖 (人の手が加わったもの) にはやぐらがあり、崖の中ほどから大きな柏槙が伸びています。根廻り 3.7メートルで、境内二本目の市の天然記念物です。生命力の強さを感じます。(ここも非公開ですが、仏殿にいたる階段の途中から垣間見ることが出来ます。)


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[ 歴史 ]
     浄光明寺は北条長時 (1230-64) が開基となり(後に第六代執権となる)、真阿上人 (? ー1296) が開山となって開かれたといわれていますが、第五代執権北条時頼 (1227-63) も建立に与ったものと考えられています。(北条長時は執権を時頼から引き継いだのですが、 生まれも亡くなったのもほとんど同じですから同時代の人ということになります。)

     創建は1251年といわれていますが、そのとき長時は六波羅探題として京におりましたので、鎌倉にもどった1252年ではないかとの考えもあります。その年 (1252年) 、宗尊親王 (1242-74) が第六代将軍として鎌倉に下ったときに随伴したのです。

     長時が執権になったのは少し下がって1256年です。9年ほど執権職にありましたが、1564年にその職を北条政村 (1206-73) に譲り、仏門に入り、その年になくなりました。

     開山の真阿上人は浄土宗ではありましたが、浄土宗の開祖法然の説いた"南無阿弥陀仏"をもっぱら唱える専修念仏とは違い、諸行本願義 (開祖は長西(ちょうさい: 1184-1228)) の僧で、当寺を様々な修行をして極楽往生を目指す"持戒念仏の寺"としました。

     当寺が鎌倉で有力寺院の一つであったことは次の話で分かります。
    日蓮が他の宗派を攻撃したことはよく知られていますが、伊豆への配流から帰って、1268年に幕府はじめ11箇所に書状を送り、日蓮宗への改宗を迫ったとき、その一つに当寺が含まれていました。(その他には、建長寺、極楽寺、大仏殿別当、寿福寺などでした。)浄光明寺が有力な寺院とみなされていた証拠です。

     第二世は真了 (?-?) 。第三世は性仙道空 (しょうせんどうくう: 1248-1332) です。当時の禅宗の高僧から評価され、学徳に優れ、戒律を非常に重視した高僧であったことが分かっています。またこの時代 (1299年)に、重要文化財である阿弥陀三尊像が造られました。

     このように戒律を重んじる寺でしたが、その背景には京都泉涌寺の影響が強くあったものと考えられています。俊芿 (しゅんじょう: 1166-1227)によって建立された泉涌寺は戒律の復興と、真言・天台・禅・浄土の四宗兼学の道場でありました。
     浄土宗諸行本願義の開祖長西俊芿から教えを受けていることや、当寺には泉涌寺第六世願行 (1215-95) との係わりを示す伝承があり、これらを勘案すると当初から泉涌寺との密接な関係があったものと考えてよいのではないかとのことです。

     第四世は如仙房高恵(にょせんぼう こうえ) または智菴 (ちあん) 和上です。

高恵は正和三年 (1314) には他の密律系寺院の僧とともに、浄土(諸行本願義)、華厳、真言、律宗の勧学院の建立を発願しています。

     元弘三年 (1333) 鎌倉幕府は倒されましたが、建武二年 (1335) 残っていた北条一族により鎌倉が奪われたため (中先代の乱)、足利尊氏は取り返すため鎌倉に来ます。武家の政権を打ち立てることと後醍醐天皇の朝廷との関係に悩んだ尊氏が蟄居したところとして知られています。このときも第四世の高恵でした。

     幕府滅亡から1335年までの間に重要文化財に指定されている「浄光明寺敷地絵図」が描かれたものと考えられています。 この絵図により、当時の様子が明らかになり、境内ならびに同寺の所有地が国の史跡に指定されました。(平成19年)

     それ以降も足利尊氏・直義の支援があり、鎌倉府の第一代将軍足利基氏や第二代氏満なども帰依し、栄えました。

     明治になって、中興開山大三輪信哉住職、中興第二世大三輪龍卿住職、中興第三世大三輪龍彦住職と続き、現在は大三輪龍哉住職です。

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