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|  境内案内  | 歴史 |
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[ 寺号 ]     功臣山   報国寺 (臨済宗)

[ 所在地 ]
     JR鎌倉駅東口より十二所・金沢八景方面のバスに乗り、浄明寺バス停で降ります。そこから50メートルほど戻ります。信号のあるところで左に折れ、滑川に架かる華の橋を渡って100メートルほど緩やかな坂を進むと右手にあります。

[ 報国寺の古建築 ]
     鐘楼を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。
|  鐘楼 |
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[ 境内案内 ]

     近年建てられた、藥医門という形式の山門を入ると、参道の両側には、よく手入れされた庭があります。しばらく鑑賞しながら右手の石段まで進みます。
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     石段の上に本堂や迦葉堂などの建物があります。本堂の本尊は、釈迦如来です。
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     本堂の右手には、仏陀の弟子、迦葉から名をとった迦葉堂と呼ばれる2階建ての建物があります。

     ここには、仏乗禅師坐像、迦葉尊者立像などが祀られていて、日曜日には日曜座禅会が開かれています。ただし、普段は公開されていません。
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     多くの寺宝が火災によって失われましたが、それでも、仏乗禅師の『東帰集』(これは、偈頌(げじゅ)とよばれ、仏の教えや徳を讃える言葉を韻文の形にしたものです。国の重要文化財)、同じく重要文化財の「天岸」や「慧広」の木印、古文書などがあり、現在は鎌倉国宝館に寄託されています。

     本堂の左手には鐘楼があり、さらにその左には、多数の小型の五輪塔などが集められています。由比ガ浜などから発掘された、新田義貞鎌倉攻めの際の両軍戦死者の石塔を集めた供養塔だそうです。
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     本堂の左手に受付があり、竹林を散策することができます。(拝観料 200円)

     受付から入ると、本堂の後ろにある庭園を拝見することができます。
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     その後ろに竹林が広がり、孟宗竹の間をぐるっとまわるように散策できます。竹林の奥には茶店があり、くつろぐことができます。
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     竹林の右手の崖には、やぐらが掘られていて、多数の五輪塔が置かれているのが眺められます。開基といわれる足利家時とここで自刃した足利義久の墓が安置されているということです。
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[ 歴史 ]
     一説では、1334年(建武元年)、足利尊氏の祖父である、足利家時が建てたといわれています。

     一方で、宅間上杉の祖上杉重兼が立てたという説もあり、家時が建てたお寺を、重兼が報国寺にしたのではないかとも考えられています。

     開山は、仏乗禅師(天岸慧広:1273-1335)です。武蔵の生まれで、13歳で建長寺の無学祖元に仕え、各地で修業の後、祖元の弟子の高峰顕日に仕えました。顕日が円覚寺に移ると従いました。

     元亨元年 (1321) に元に渡り修行をし、正中元年(1324)に帰国し、報国寺の開山になりました。五山文学のー人として活躍しました。

     足利家と上杉家の菩提寺として五山・十刹の次の諸山に位置づけられ、寺域もひろく栄えました。 物乗禅師が亡くなると、弟子たちが休耕庵という開山のための塔頭を立てました。その跡が今の竹林といわれています。

     鎌倉公方足利持氏のときに、室町幕府の将軍が第5代で一時絶えたため、自らが将軍に成ることを望みます。やがて第6代将軍が義教と決まりましたが、さらに対立することになります。ついには、幕府軍に追い詰められ、瑞泉寺の近くの永安寺で自害します。これは永享の乱(1438-39)と呼ばれています。

     一方子供の義久は幼くして報国寺で自害するという悲劇が起こりました。この地に葬られましたが、お墓は特定されていません。
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