仏    殿


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仏殿内部の豪華な装飾をご覧にいただけます。



仏殿について

桁行 (正面) 五間 ( 約9.1m : 以下メートルはおよその値を表示 )、梁間 (奥行き) 五間 (9.1m)、一重土間、寛永二十年 (1643) の建立です。

     仏殿は二層のように見えますが、背の高い一層の周りに裳階(もこし)とよばれる部分がついた三間の土間仏殿です。
     四面は五間ですが、(周辺の裳階の部分を除いた)中心の部分が三間なので、建造物の分類としては三間仏堂で、さらに、屋根が二つあるので、二重仏殿として分類されています。

     禅宗様を基本にしていますが、周囲には蟇股(かえるまた)に十二の干支の動物が彫られ、内部の装飾が尼寺にふさわしく華やかさにあふれています。 外観の特徴は、屋根の軒反り(のきぞり)が無く、まっすぐなことで、このころの徳川家ゆかりの寺院にみられるのだそうです。

蟇  股 (十二支のうちから、辰、申、酉)


     正面の上に懸かるには「寶珠殿」(ほうじゅでん)とあり、この周囲に朱が塗られていた跡が残っています。この部分は二手先出組みの斗栱となっています。


(すでにはじめの部分でご覧いただいたように、)
    内部の天井を支える12本の柱は上下の端が丸くすぼまった形をして粽柱(ちまきばしら)とよばれていて、禅宗様の特徴をしめします。 その上部は淡い色から濃い色までを段階的に変化させて彩色する繧繝彩色(うんげんさいしき)という技法で鮮やかに彩られています。

     天井にはの絵を中央に、極彩色の天女に楽器や法具などの絵、水戸徳川家の三つ葉の葵の紋や太田家の桔梗の紋など、板壁には鳳凰の絵が描かれており、厳かななかにも尼寺にふさわしいやさしさが感じられます。本尊の後の来迎壁の裏側の板壁にも普賢菩薩と文殊菩薩の彩色の美しいやさしい像が描かれています。

     入り口の扉の内側の引き落としの金具に蝉の形の金物があります。蝉と同じように人の命の短さ・はかなさを示すとも、蝉を驚かせないように静かに出入りするようにとの諌めとも言われています。


     ご本尊は徳川第三代将軍 家光 (1604-51) 寄進の阿弥陀三尊で、台座の蓮華座は2つに分かれる部分のある踏割り蓮華(ふみわりれんげ)とよばれる形で、阿弥陀如来が人々を救うために歩き出しているお姿を現し、前に進もうとする躍動感があります。

     また、壁面には「英勝寺記」という額が懸かっており、寛永十五年に民部卿法印道春(林羅山)が記したものです。林羅山は江戸初期の儒学者で幕府儒官林家の祖で、家康から家綱まで4代の将軍に侍講として仕えました。

仏殿建立と再建の経緯

     仏殿は、棟札によれば、寛永十三年(1636)に英勝院が建立していますが、仏殿の天井にある梁牌(りょうはい)(写真下) には、寛永二十年に徳川頼房が建立したという銘があります。これは最初英勝院が建立した仏殿を徳川頼房が現在見られるような立派な仏殿に改築したものと思われます。


     北鎌倉にある、かつて尼寺であった東慶寺仏殿がよく似ているといわれています。英勝寺の仏殿と比べ装飾が少なく、やや小さめです。現在は国の重要文化財として、横浜にある三渓園に保存されています。