若宮大路


二の鳥居 鎌倉駅東口の改札からバスやタクシーにて混雑する駅前広場を横切って進むと、南北に走る大きな道路に達します。

鎌倉の道路は幅員が狭く常時渋滞を起こすと云われていますが、若宮大路は歩道を含めて全幅が約30m程ある近代的な立派な街路です。

北は鶴岡八幡宮から始まり、南に向かって一直線に約2km程延びて由比ヶ浜海岸にまで達しています。 この様に、若宮大路は街中を南北に貫いて鎌倉の市街のバックボーンを形成しています。

さらに地図を拡げて見ると、旧市街の都市計画はこの若宮大路を中心に構成されていることがよく分かります。

特に、鎌倉が近代化の波の影響を受ける以前の鉄道も敷設されていない古い地図、 例えば明治15年測量の参謀本部の鎌倉の地図を見ると、江戸時代の街の様子を残しており、 さらに遡って八百年前の中世における町の様子を窺い知ることが出来るものと期待できます。

この様な素晴らしい都市計画の基本となる近代的街路を企画したのは誰なのか、 さぞかし著名な都市計画の学者によりデザインされたのであろうと推測するのは私一人だけではないでしょうか。 その答えは、鎌倉に武士による幕府を開いた源頼朝なのです。

若宮大路 時代はさかのぼること八百数十年前の治承4年(1180)8月17日、平清盛により伊豆蛭小島に流された源頼朝は源氏の再興を目指して挙兵しましたが、 緒戦の石橋山の合戦で大敗して房総に逃れました。この房総の地にて千葉介常胤に鎌倉行を具申され、10月6日には源氏ゆかりの鎌倉に大軍を引連れて乗り込みました。 

鎌倉に入った頼朝は、翌7日には真先に由比若宮(現在は材木座一丁目の元鶴岡八幡宮)を訪れ、 次に父親の義朝の館跡をたずねました。さらに12日には鶴岡八幡宮を現在の地に移し源氏の氏神としました。 この鶴岡八幡宮を基点として、武家政治の中心になる鎌倉の街造りに着手しました。

ここで問題は、初めて鎌倉に入った頼朝が先ず着手したことは、鶴岡八幡宮を都市計画上最高のポイントに設定したことです。 鎌倉が如何に源氏ゆかりの土地とは云いながら、石橋山の合戦に破れて命からがら房総に船で逃れました。この房総の地にて、 千葉常胤より鎌倉を根拠地にする様に勧められたばかりで、鎌倉の土地に関してはまったくの白紙状態と考えてもおかしくありません。 この様な状態にて、頼朝は鎌倉の都市計画の構想を何時考えたのか大変に興味のある問題です。

一の鳥居
その後は、平家の大軍が鎌倉を目指して迫り来ましたが、10月20日富士川にてこれを破り、取って返して常陸の佐竹と戦い11月17日に鎌倉に戻りました。

この時から鎌倉の都市建設が具体的に進められました。先ず12月12日に大倉の地に館を新たに設け、山谷や村に名を付け、 道路の整備を行いました。

頼朝は特に道路の新設や補修が大変に好きのようでした。例えば、寿永元年(1182)3月15日には、 妻政子の安産を祈願して鶴岡八幡宮の社頭より由比ヶ浜まで道路の曲がりを直して参道を建設した。 この工事は頼朝自ら陣頭指揮を行い、義父の北条時政以下の御家人が参加して土石を運搬しました。

頼朝が陣頭指揮をして建設した道路工事が若宮大路の始まりです。現在まで八百年以上も破壊されること無く、 多くの人々により無事に受け継がれ、今日のモータリゼーションの時代を迎えても立派な街路として鎌倉の町の中心として活躍しております。

若宮大路はこの様な素晴らしい歴史を持っており、鎌倉市民の大切な歴史的土木遺構であると共に日本国にとリましても世界に誇れる土木遺産であります。

さて、この様に現在においても立派に活躍している若宮大路は鎌倉時代はどの様な構造をしていたか大変に興味のあるところです。

六郎茶屋 鎌倉時代の若宮大路の構造に関しては、大三輪龍彦氏・河野真知郎氏の各氏の発掘調査報告書によりますと、 両側溝と路肩を含めた総幅は36.6m、道路幅員は十丈(30m)有ったと云われています。

先に、現在の若宮大路の全幅を約30mあると述べましたが、八百年前は更に大規模の道路を頼朝は計画し造成していたことになります。

戦前の時代における若宮大路を思い出してみますと、鎌倉駅前の路上には江ノ電の終点があり、 車掌が電車の集電装置ポールの方向を変えていましたのをハッキリと覚えています。

下馬四つ角から南側は道が狭く、琵琶橋は擬宝珠の付いた高欄のある木橋で、その先は大きな松ノ木の間に道路があり、 砂埃をたてながら歩きますと、一の鳥居の脇の畠山六郎重保塔の傍らに、「六郎茶屋」と称した茶店を老婆が開いていました。 さらに進むと、海岸通りまでは道らしいものでしたが、その先の海岸に出る路は狭く砂地の路でしたのを、 今でもハッキリと覚えております。