鎌倉の町には、若宮大路を中心に東に小町大路と西に今大路と町を南北に貫く三本の路があり、この三本の
南北線の路を横から東西に串ざすように交差する路があります。今回はこれら東西に貫く路について紹介します。 鎌倉市史の説明に、大町大路の西の始まりは原の台付近と述べているので、少し西よりの安達盛長の邸跡の甘縄神明社付近を出発点として、現 在の由比ヶ浜通りに沿って東に向って歩きます。 鎌倉駅より江ノ電に乗り由比ヶ浜駅にて下車、瀟洒な由比ヶ浜駅の改札を出るとそこは海岸通り(国木田独歩の「鎌倉夫人」の舞台となったのは海岸通りの海岸橋)です。この海岸通り を右に鎌倉文学会館方向に向って進むと、左側の塀にへばり付く様にして「染屋太郎大夫時忠邸跡」の碑が建っている。由比ガ浜通りの交差点 を渡り、そのまま進むと長楽寺谷(ちょうらくじがやつ)で、奥に鎌倉文学館があり、入口に「長楽寺跡」の碑が建っている。 今回は信号のある交差点を、現在の由比ヶ浜通りに沿って歩いてみることにします。 甘縄神明社と安達盛長邸跡 海岸通りの交差点を左に曲が り、由比ヶ浜通りを長谷観音寺方面に向って進み、暫らくすると右角に長谷消防署の建物が見えてきますので、この消防署の角を右に曲がって 路地に入ると、左側に「川端康成記念館」があり、正面の右側に「安達盛長邸跡」の碑があり、さらに中央の石段の上には「甘縄神明社」の社 が祀られています。 吾妻鏡の文治2年(1186)正月2日の条に「頼朝ならびに御台所(政子夫人)、甘縄神明宮に御参拝、帰りに安達盛長(あだちもりなが: 北条政子駆落ちの場面にて大活躍した藤九郎盛長)の家に入る云々」とある。10月24日の条に「甘縄神明の宝殿を修理し四面の垣根と鳥居 をたてる云々」とあります。 甘縄神明社の由緒書に「和銅3年(710)染屋時忠(そめやときただ:鎌倉の始祖的人物)の創建で永保元年(1081)に源義家が社殿を 再建した。源頼義は相模守として下向の節に祈願して一子八幡太郎義家が生まれたと伝えられている」と記されているように、甘縄神明社は古 くから鎌倉にある神社です。 石段の手前の右側には「足立盛長邸跡」の碑があり、頼朝が伊豆の蛭が小島に流されていた頃、安達盛長は頼朝を助けて力を尽くした。石橋山 の合戦にて破れた頼朝を助けて安房に逃れ。安房の地にて兵を集めて勢いを取り戻した頼朝が、鎌倉に入り武家政治の幕府を樹立すると、盛長 は今までの功績により重要な役を与えられるようになった。云々」と述べています。吾妻鏡にも、治承4年(1180)12月20日の条に 「頼朝が安達盛長の家に入った」との記録があります。 盛久頸座 甘縄神明社より由比ヶ浜通り を、今来た道を戻り東へと進むと、長谷東町(あずまちょう)バス停付近の大きな木の下に「盛久頸座・主馬盛久頸座」の碑が建っています。 2種類の碑と木製の説明があり、一番古い鎌倉同人会の碑に「盛久頸座(もりひさくびざ) 平家物語に、文治2年(1186)6月28日幕 府に命じて平家の御家人主馬八郎左衛門盛久を、由比ヶ浜に斬らしめんとせしに、不思議の示現ありて之を赦したもう、とあるは此地なりと云 う」と書いてあります。 新編鎌倉志にも「長門本平家物語巻20に、主馬盛久が京都に隠れていたが(中略)北条時政に捕らえられて由比ヶ浜にて斬首されようとした ところ、清水寺の観音の御利益にて助けられた云々」とあります。 笹目(ささめ)より東に進むと、多くの路が集まる交差点に達し、その角に六地蔵が祀られています。この角を斜め北に進むと、裁許橋を渡り 市役所前の交差点から扇ケ谷へと通じ、その先は今大路へと連絡しています。六地蔵を祀る小高い場所には、芭蕉の句碑や飢渇畠の碑など賑や かに所狭しと並び、土地の人々による供養の花が絶えません。 この六地蔵の交差点から南西方面の道を進みますと江ノ電の和田塚駅に達します。その先左側には、鎌倉に唯一つ残る高塚式古墳があり、この 塚に和田合戦の戦死者を埋葬したと伝えられ、古くよりこの塚を和田塚と呼んでいます。 下馬四つ角 六地蔵の交差点から由比ヶ浜通りを更に東へと進むと、 大町大路と若宮大路とが交差する四つ角に到達します。この付近は「下馬」と呼ばれて、鎌倉時代には鶴岡八幡宮参拝の武士達はこで馬を下 り、徒歩にて参道を進み八幡宮に詣でたとの謂れがあり、この交差点を下馬と呼ばれるようになったと碑に書いてあります。 佐助稲荷の奥から流れる佐助川が、裁許橋の下を流れて滑川に合流する若宮大路の付近に、下馬橋(長さ9尺)が有ったと新編相模国風土記稿 に述べています。 健保元年(1213)5月1日「和田の乱にて義盛ようやくに兵尽きて矢も無くなり、痩せ馬に鞭を打って前浜の辺に逃れ退く。北条泰時は兵 を率いて中下馬橋の付近を固める云々」と吾妻鏡にも述べています。 若宮大路の交差点を横断し更に東へと進み、滑川を延命寺橋(えんめいじばし)にて渡り、延命寺の前より緩やかな坂道を上り横須賀線の踏切 を渡ると、大町に入り商店街にて賑わう交差点に到達します。 大町四つ角 この交差点は大町四つ角と呼ばれ、この四つ角にて海岸の和賀江島より北に向かつて伸びて鎌倉の政治の中心地に達する、鎌倉の物流幹線であ る小町大路と交差します。この付近は鎌倉時代から商業地区として大変に栄えた所です。 例えば、建長3年(1251)12月3日の鎌倉市中の商業地区を定めた吾妻鏡の記事に「鎌倉中小町屋のこと定めおかるゝ処々として 大 町 小町 米町 亀ケ谷の辻 和賀江 大倉の辻 化粧坂山上と述べ、 牛を小路に繋ぐべからざる事 小路掃除を致すべき事」 と記されています。牛を自動車に置きかえると現在の御達しにも通じ、時代は変わっても人の行動に変りはないところが面白いです。また、こ の通達の14年後の文永2年(1265)3月5日の記事に「鎌倉中に散在する商店を禁じ、九箇所を許可する。大町 小町 魚町 米町 武蔵大路下 筋違橋 大倉の辻」と、先の通達後も、いつの間にか商店街が諸所に広がつており、これに対し幕府は同じような通 達を再度発行しています。 安養院 大町四つ角から東に進むと、路の左側の小高いところに寺が見えてきます。浄土宗の安養院(あんよういん)です。新編相模国風土記稿により ますと、「嘉禄元年(1225)3月に、北条政子が頼朝の菩提の為に笹目ケ谷の辺にて方8町の寺領を所有し、七堂伽藍を営む律寺の長楽寺 を建立し、僧願行を開山として永く菩提所と定めた。同年7月政子尼が亡くなられたので願行が導師となり、当寺に葬送し法名を安養院如実妙 観大禅尼とした。(中略)後に火災の為に消失したので現在の地に移し安養院と名を変えてた云々」とあります。 山門を入り本堂の裏手に2基の宝筺印塔(ほうきょういんとう)があります。向って右手の大きい宝筺印塔には徳治3年(1308)7月の銘 が刻まれています。鎌倉に現存する最古の宝筺印塔で国の重要文化財となっています。左の小さい宝筺印塔が北条政子の供養塔と云われていま す。 長勝寺 大町大路を東へと進むと名越 の四つ角へと達します。この四つ角を左に曲がると名越より釈迦堂口の随道を通り浄明寺方面に抜けられます。又斜め左手の小道を進み三枚橋 を渡り旧道を進むと、日蓮宗の妙法寺から安国論寺を通り再び元の大路へと出ます。 横須賀線の踏切を越えた右側に入りますと山門があり、ここが日蓮宗長勝寺です。この寺の付近までを鎌倉市史で云うところの大町大路の東端 と考えられます。 新編相模国風土記稿によれば「長勝寺は松葉谷の南方にあり石井山と号す日蓮宗なり云々」とあります。現在でも日蓮宗の修行僧の荒行の最終 日2月11日の酷寒の時期に、長勝寺の井戸にてに水被りの荒行が行われ、大勢の信者やカメラマンが集まります。 長勝寺と妙法寺及び安国論寺の3寺は何れも日蓮宗で、この付近を松葉ケ谷を呼び日蓮上人が鎌倉にて修行の際に法難に会ったと云われていま す。 ここをぬけると「銚 子の井」及び「日 蓮の乞水」を通り名越切通へと通じています。 |