さて針磨橋の手前を極楽寺川に沿って戻ると江ノ電の踏切にかかる、この踏切を渡ると線路の側に石碑が建っている、阿仏尼亭旧蹟と書かれている。阿仏尼(あ ぶつに)とは、鎌倉時代の歌人にて和歌の冷泉家の祖と言われている冷泉為相(れいぜいためすけ)の母親。播磨の細川庄の相続をめぐり、先妻の子の二条為氏との 間で訴訟事件となり、弘安二年(1279)十月十六日に京都を出発し、同月二十九日に鎌倉に到着。この十四日間の旅の日記及び翌年秋迄の鎌倉滞在記を、かの有 名な旅行記「十六夜日記」として取り纏めた著者。
阿仏尼は極楽寺の月影ケ谷(つきかげがやつ)に住み、当時の住まいの様子を十六夜日記に次のように描いている。
「東にて住む所は月影谷と言う所で、海に近い山裾で風は強いが、山寺に近いので閑静で、波の音や松風がたえず聞こえている。」
京都から鎌倉に至る東海道には、途中に多くの河川が流れている。阿仏尼はこの川を渡る様子を次のように描写している。
滋賀県の野洲川を渡る、霧が大変に深くて先に行く人の姿は見えず、馬の足音だけがはっきりと聞こえ、馬を渡す瀬はここと道案内をしているようであると歌って
いる、馬の背に乗り渡ったのか?
岐阜県の長良川には、舟を並べて定家葛(ていかかずら)の綱にて繋ぎ合わせた浮橋が架けられており、大変に危ないが何とか渡れた。また、頼りない我が身の ような浮舟を浮橋にするなんてと恨めし気に歌に詠んでいるのが面白い。先の、頼朝と相模川にも出てきた浮橋が、長良川にても活躍している様がよく分かる。
静岡県の浜松を流れる浜名川には橋が架かっており、橋の上から見渡せば鴎が多く飛び交い、水に潜ったり岩の上にて休んだりしていて面白かった。浮橋とは異な り、ゆとりを持って川を渡る様子が描かれている。
天竜川は渡し舟により渡る。船に乗るにつけ、昔し西行法師がこの渡しにて難儀をした話を思い出して大変に心細かった。木造の舟一艘で大勢の旅人を渡すの で、往復に休む暇も無いほど忙しく動いていると、当時の渡し舟の様子が描かれている。大井川は水が涸れていたので、川幅が大変に広いが難なく渡れた。富士川は 朝早くに渡ったので大変に寒かった、数えてみれば、京都を出発してから十五の川を渡った事になると述べている。
鎌倉時代の川を渡る様子が非常に具体的に描かれており、当時の橋の状態を知るには貴重な資料である。
○ 案内:江ノ電の稲村ガ崎駅より右に進み徒歩5分程。