鉄ノ井


鎌倉駅前広場の左手にある赤い鳥居から、観光客で賑う小町通を鶴岡八幡宮方面に進むと、 寿福寺前から東にのびて巌不動の前を通る窟堂小路(いわやこうじ)と交差してる。
鉄ノ井 交差点の数メートル先に、北鎌倉方面から鶴岡八幡宮の境内に沿って鳥居前を東西に走る横大路(よこおおじ)が有る。 この三叉路の角に、屋根をかけた古い井戸があるのが見える。 この井戸が鉄ノ井(くろがねのい)と呼ばれている、鎌倉十井の一つです。

傍らの石碑に、「この井戸の水質は清らかで美味しく、真夏でも井戸の水が涸れることはなかった。 昔、この井戸から高さ5尺(1.5m)余りの鉄観音(くろがねかんのん)の首を掘り出したことから、 この井戸を鉄ノ井(くろがねのい)と名付けた。 正嘉二年(1258)正月17日午前2時頃に安達泰盛の甘縄(あまなわ:長谷方面の昔の地名)の屋敷から出火し、 折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、 総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、 若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に述べている。この井戸から掘出された観音像の首は、 この火災のときに土中に埋めたのを、掘り出したもので、新清水寺の観音像と伝えられ、 この井戸の西方の観音堂に安置された。明治に入り東京に移したと云われている。」と述べています。 駅前入口

岩窟小路(いわやこうじ)にある窟堂(いわやどう)の名は、吾妻鏡にしばしば出てきます。 最も古い記録は文治4年(1188)正月1日が最初で次のように述べています。 「文治4年正月1日 昨夜より雨が降る、頼朝が鶴岡に御参、例のごとし。 日中以後晴れる。大風。佐野太郎基綱が窟堂の下の宅焼亡す。焔飛ぶがごとし。人屋敷数十宇災す。 鶴岡の近所たるによって、頼朝宮中に参りたもふ。云々」とあります。

その後もしばしば窟堂付近は火災により被害を受けた記録が見られます。 また、長谷(甘縄)方面より幕府を訪ねる際にも、皆この窟堂の路を使用したようです。 建暦3年(1213)5月3日の和田合戦の記述に、土屋義清が甘縄から亀ケ谷に入り、窟堂の前の道を経て云々と述べてます。

一方、横大路は元暦2年(1212)5月16日の記述に、 平清盛の嫡男宗盛親子が囚われて鎌倉に送られた時に、若宮大路を経て横大路にいたる云々とあります。 「元暦2年5月16日今日、前内府鎌倉に入る、大勢の見物人が集まる。内府は輿を用い、金吾は馬に乗る。 (途中略)若宮大路を経て横大路にいたり、しばらく輿を控え、宗親まず参入して、事の由を申す。云々」とあります

和田合戦の記述にも、横大路にて云々と述べられております。 天福元年(1233)8月18日の条に「北条泰時が江ノ島明神に参詣しようとしました時に、 由比ケ浜において死体を発見したので、 主要道路の武蔵大路・西浜・名越坂・大蔵・横大路の道路封鎖を実施した。」と述べています。

この様に、鉄ノ井は鎌倉に昔からる「窟小路」と「横大路」が交差した交差点の近くにあり、当時の人々にとっては、 大切な飲料水の供給していたと推察される。
この鉄観音は明治6年(1873)以前は、井戸の西方の小堂にこの像を安置していましたが、 後に東京人形町の大観音寺に移転し、そこの本尊となりました。
岩屋堂
東京都中央区区民新聞2004年4月12日号に、次のように述べています。 「大観音寺は名のごとく大きな観音像を本尊としている。 しかも頭部だけで、高さは1メートル70センチと人の背丈と同じで、顔の幅は50センチ。菩薩型の鋳鉄製で、 もと鎌倉新清水寺の本尊であったという。その頭部のみが井中で発見され小堂に祀られていたが、 明治維新の神仏分離令で処分されようとしていたのを石田可村と山本卯助が海をわたって、 明治13年、四層楼を建て安置したのが始まり。当初は今の日本橋小学校のあたりに建っていたという。 昭和47年に都の重要文化財に指定されている。」

現在ではこの地に鉄観音の像は無く、ただその名称のみが井戸の名として残っています。

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